「ウィーンの思い出(2)ウィーンへと導かれて」 野口玲子

入学式を2日後に控えた4月の初めのこと、武蔵野音楽大学声楽科を卒業、専攻科を3月末に修了したばかりの私に、母校で教鞭を執るようにと突然の電話連絡が入りました。ピアノ科の友人には、ピアノやソルフェージュの教師として音楽大学への就職が決まっている人もいましたが、声楽の場合は、最も若い先生でも私より10歳位は年上でしたから、卒業したての私には信じがたく、予想もしないことでした。私が武蔵野音楽大学で声楽専攻の学生の実技指導をすることになったと聞いた多くの方々から「おめでとう!素晴しい!名誉なこと!」と祝言を頂きましたが、私には名誉とか光栄より、漠然とした今後の責任の重さの恐怖につぶされそうになりつつも、「大手を振って勉強を続けることができる!」というのが喜びとしての正直な心境でした。

1960年代当時は今のように誰もが大学へ進学できる時代ではありませんでしたし、まして女子ではなおさらのこと。親の理解があり、経済的に許されなければ不可能なことで、そして卒業後2~3年のうちに結婚して家庭に入るのが幸せな人生、と決まっていたような時代です。我が家では勉強に関しての男女差別は全くありませんが、「卒業後に仕事をすることは考えなくてよいが、勉強は続けなければいけない」と父から諭されました。卒業して、さてこれからどうやって勉強を続けようか?と考えていた矢先のことでしたので、教えることの難しさや責任の重さに恐さや不安を抱きつつも、学ぶことが仕事、という立場を頂けたことは思いがけなく、有り難く、感謝に堪えない喜びでした。しかしこの責務を果たすには、ただおろおろしてもおられず、立派な先輩方のように音楽の生まれた本場で生活し、スペシャリストとしての研鑽を積まなければならないこと、そして学生たちを教える前に私自身に多くの蓄積が必要なことをひしひしと感じました。日本は西洋から遥か遠く離れた、伝統から宗教も文化も言語も全く違う東の島国なのです。当時の学長先生からも「留学しなければいけない」といわれ、学内でお会いすると度々「ご両親のお許しは出ましたか?」と心配して声をかけて下さいました。言われるたびに学長先生のお言葉をその通りに伝えることで、不安を禁じえない両親も徐々に留学の必然性を理解していったようでした。

私はドイツ・リートの素晴しさに憧れて学んでおりましたので、ドイツ語を母国語とする国へ留学したいと考え、留学から帰られて立派に活躍しておられるご尊敬申し上げる先生に御助言を仰ぎました。私が師事すべき先生に推薦状を書いて下さり、何も解らない私に様々なことでお教えを賜りました。専攻のこと以外の下宿探しや、心配する両親を説得しても下さいました。私が感謝してお礼を述べると「後輩に親切にするのは当たり前のこと。お礼の気持ちがあったらそれはあなたの後輩へ!」とおっしゃるのです。涙がこぼれました。留学地は、お教えを乞う先生が居られるところで決めるのですが、数ある都市のうち、音楽・芸術の都、ウィーンで学べたことは本当に幸運なことでした。

当時の大学出の初任給が3万円位、ラーメンが35円、電車の最初の区間が10円、タクシーの初乗りが100円というときに、ヨーロッパへの航空運賃が片道25万円。格安チケットなどなく、1ドルが固定で360円です。大企業のエリート社員や僅かの留学生がようやく欧米へ出かけはじめた頃で、単なる観光の個人旅行など殆どありません。両親は「親は塩をなめてでも子供の教育には全力を尽くす」を信条としており、特に父はスイスへの留学が決まっていたのに、戦争で叶わなかった悔しい思いもあるのでしょう、私には「何も心配することはないから、充分に勉強してくるように」と云ってはくれましたが、容易なことではなかったはずです。音大に2年間務めながら、声楽やドイツ語の勉強に必死で取り組み、留学への準備を整え、決心を固めてまいりました。

さていよいよ海外留学です。1年間のヴィザを(3ヶ月以上の滞在にはヴィザが必要。また1年毎に現地で更新しなければなりません)取るためにオーストリア大使館へ。偶然ですがウィーンで師事することが決まっていたグロスマン先生の甥御さんが、その時期たまたまオーストリア大使館の書記官で、心強い限りでした。そして銀行で海外渡航者持ち出し限度額500ドルの両替です(当時はまだ為替管理が厳しく、大学へ入学するとはじめて私費留学生として1日当たり10ドルの枠で送金が許されます)。大学の新学期は欧米では10月ですが、できるだけ早くウィーンの生活に溶け込み、ドイツ語も音楽の勉強も充実させるようにとの先輩の先生からの助言に従い、3月初めに出発することにいたしましたので、入学許可を得るまでの半年間、この500ドルでの生活となりました。パリのソルボンヌ大学での給費留学生として、留学経験のある叔父の紹介の旅行代理店で航空券を購入、身の回りの荷物は行李のような頑丈なジュラルミンケース(今も衣料の保管に使っています)に詰めて別送手荷物として送り出しました。

1968年3月5日、一人旅も飛行機も初めての私は、家族や大勢の友人達に見送られ(20人以上!)羽田空港からアンカレッジ経由の(未だモスクワ経由や直行便等ありません)日本航空に乗り、ロンドンでオーストリア航空に乗り継ぎ、ウィーンへ向うことになりました。ロンドンでの乗り継ぎに不安いっぱいの私に、幸いにも救いの手が差し伸べられました。小学校時代の同級生が(夫人は隣のクラスメート)ロンドンの英国大使館に勤めていることを友人が教えてくれたのです。長年のご無沙汰を恥じ乍らも、ロンドン経由でウィーンへ留学する旨を出発の10日程前に葉書で伝えたところ、6時半という早朝にもかかわらず、霧の中を夫妻が飛行場まで来て下さって、約3時間の待ち合わせ時間をおつき合い下さいました。しかしよく考えてみますと、外交官なので、普通では入れない空港内の乗り換え客の中へ来ることができたのです。お二人の親切には心打たれ、励まされました。そして別れ際、結婚前にベルギーでの留学経験のある夫人に「解らなかったら、遠慮せずに解るまで何度でも訊けばいいのよ。」と云われました。私は留学中に幾度となくこの言葉を思い出しました。異国の異文化の地で、言葉の問題は大変です。そして解らない時に解らない、と言うのは実際にはとても勇気がいることなのです。いい加減にJa! Ja! といって誤魔化す人の多いこと!昔から『訊くは一時の恥、訊かざるは一生の恥』と申しますが、彼女のアドヴァイスは留学で基礎となる最も大切なことだったと、本当に有り難く思いました。因にこの友人はデンマーク大使、英国大使を歴任、昨年退官されました。

思い出しつつここまで書きながら、『私はなんと幸せ者!』と全身が感謝の気持ちで満たされています。いろいろな方から貴重なアドヴァイスを頂くことができ、思いを越えてスムーズに準備を進めることができました。何と多くの方々との素晴らしい出会いに守られ、支えられてきたことでしょう。すべて神様の御手に導かれて歩むことができましたことを、心から感謝いたします。

(むさしのだより2006年 3月号より)