主よ。
日々、わたしたちは悪魔と闘っています。
不正や悪意、攻撃や冷笑。自己中心あるいは自己否定、高慢あるいは絶望。
どうか主よ、疲れ果て、ともすれば絶望に陥りそうになる私たち一人一人を忘れず、御腕に抱きしめ、光に満ちた草原を歩ませ、憩いの汀に導いて下さい。
命の息吹を再び吹き込んで下さい。
主の見守りのもと、私たちは笑顔を交わし、互いにとって天使であるような、そんな群れとなり、新たな千年の歩みを始めます。
【日本福音ルーテル教会東教区編・降誕2000年の祈り「みまえに心を」(1999年発行)。2月22日の祈り】
今から7年前、丁度、大柴牧師がむさしの教会に着任された頃、人生の大きなトラブルがあった。それに直面し、強い緊張と試練の中で却って生命の輝きが生まれてくることを知った。日々奮闘している自分の姿に感動を覚えることさえあった。そんなある日、それは突然やって来た。
ある朝、地下鉄に乗っていたら、胸がチクチクし、次に頭からサッと血が退いて行った。停車した駅で慌てて降りたが、身体の異変は収まらず、結局病院に運ばれることになった(心臓にも脳にも異常は認められず、1時間ほど休んだ後に出勤した)。それは始まりに過ぎなかった。その後、毎週のように、一種の発作が襲った。強いストレスが原因の自律神経失調だと分かったのは暫くしてからだった。酷い時期は1年位だったろうか、その後、少しずつ軽くなって行った。
《頑張る自分の姿が美しく見えたらアブナイぞ》という教訓を今でも心に留めている。
立ち直ろうとする時期、日曜の大柴先生の説教に慰めを得ていた。また、教会の中で交わす笑顔に元気付けられていた。冒頭の祈りは、そんな頃の切実な思いを刻んだものである。
2年前のルーテル学院大学の一日神学校で、増野肇先生の「サイコドラマの楽しい世界へどうぞ」という体験コースに参加した。その最後に、参加者が二人ずつ対になり、一人が自分の日常の一コマ(職場で苦労しながら働いている様子など)を演じ、もう一人が相手の「守護天使」となって見守るというロールプレイイング・ドラマがあった。守護天使役は、陰から相手の様子をしばらく見ている。そして目の前に現れる。守護天使:「いつも頑張っているあなたを私はいつも見守っています。」働く者:「大変で辛い時もあるけれど、これからも努力して行きます。」守護天使は相手の肩を軽く叩いて労を労う。たしかそんなドラマだった。ジーンと来るものがあった。人知れぬ苦労を窺い知る他者から労わられ、肯定されることの大きな力を参加した皆が実感した。
私たちはキリストにはなれない、しかし、お互いの天使になろうとして良いのではないか。
教会には様々な人が集まって来ている。多くは与えるより、求めるために来ている(少なくとも動機の上では)。人間の集まりだから、異なる思いが錯綜したり、互いに不満を抱いたり、軋轢が生じたりもする。「兄弟は他人の始まり」なら、「教会は世間の始まり」である。しかし、それでも教会は世間とは違う。与えることによってはじめて、求めていたものを見出すことを人は知る。そして、笑顔を交わし、お互いの天使になることで、私たちは神の民であることを証しできるのではないだろうか。
(むさしのだより2004年11月号より)