因果応報という考えがある。良い行いは良い結果によって、悪い行いは悪い結果によって報いられるということである。因果応報は共同体の秩序を維持するために有用であり、正統的な宗教の柱の一つである。
ところが、現実には因果応報には破れがある。このことは教義に困難をもたらす。宗教は因果応報の破れに悩んできた。因果応報の破れを、ここでは《不条理》と呼ぶことにする。
醒めた見方をすれば、因果の関係は確率統計的な相関関係に過ぎない。が、否応無く因果方法の破れがこの身に襲い掛かり苦しむ者にとって余りに超然としている。
さて、宗教は因果応報の破れに、どのように答えてきただろうか。インドの古代宗教であるバラモン教は輪廻転生を考案した。現世の悪は来世で報いられる、現世の災難は前世に原因がある、と考えるのである。より仏教的な世界観は、苦の原因を人間の煩悩に求める四諦である。四諦によれば、因果応報への執着は正しい世界認識でないとされよう。
聖書ではどうだろうか。出エジプトの思い出がまだ新鮮だった頃は、十戒を守ることで恵みが与えられ、背く者には災厄が与えられるという因果応報則を皆が疑わなかったであろう。しかし、因果応報が守られない場合があることに人々は気づいて行った。
劇的な例はヨブ記である。そこでは、因なくして災厄が襲い掛かるという不条理が描かれる。ヨブは驚き、呻き、必死にその理由を探し求めた。ヨブの叫びに神が答え、人智を超えた神の経綸にヨブはひれ伏す。ただ、それはヨブが我が身の悲惨に立ち返った時に答えとなっていないのではないか。その意味でヨブ記は答えを与えていない。むしろ、安易な辻褄合わせをしないところにヨブ記の迫力がある。時代が下って、コヘレトの言葉(伝道の書)では、「良い人に起こることが罪を犯す人にも起こり」(コヘレト9:2)などの世の不条理に、語り手はもはや驚かないが、「空しい」と表現している。さらに後代になり、イザヤ書では、因なくして災厄の襲い掛かった人の幻を見ている(イザヤ53章)。人々の罪を背負った苦難の僕である(キリストの原型ここにおいて、不条理に恐らく初めて意味が与えられた。
新約聖書を見てみよう。山上の説教の中で、イエスは、父は「正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」と言われ(マタイ5:45)、コヘレトが空しさを見た世界に、イエスはあまねく神の恵みを見た。また、生まれつきの盲人について、イエスは因について詮索せず、「神の業がこの人に現れるためである」と言われた(ヨハネ9:3)。不条理の理由を問うよりも、そこから生じ得るものに目を向けている。そのイエスが一度だけ不条理の理由を問うた。十字架上の「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(我が神、我が神、何ぞ我を捨て給いし)」(マタイ27:46)である。答えは与えられなかったが、十字架という不条理とその結果を引き受けた時、新しい世界が現れたのである。
不条理の理由を過去に向かって問うことは当然であろう。しかし、不条理に対し、理に適った説明は最終的には与えられない。不条理を未来に向かって生きることによって、人は今も続く神の創造の業―この世の未完成部分を仕上げて行く業―に参与するのではないか。
(むさしのだより2004年9月号より)