むさしの教会元牧師である賀来周一先生(キリスト教カウンセリングセンター所長)にむさしのだより12月号のためにクリスマスメッセージをお寄せいただきました。なお、賀来先生の新著『クリスマスの風景~現代人のためのメッセージ』(キリスト新聞社、1200 円)もお勧めします。大柴記
聖書の世界には、エッと驚くような意外なことが沢山出てきます。昨年もこの欄で飼い葉桶のことに触れましたが、救い主イエスを寝かせる揺りかごにしては、まったく意外な代物です。マリアの受胎告知だってとんでもない話ですが、それをめぐってはヨセフはマリアが不倫をしたんじゃないかと疑って離婚しようかと悩んだり、野宿している羊飼いに天使が現れたので、びっくり仰天したとか、ベツレヘムの馬小屋には、似つかわしくない高価な贈り物が並んだりとか、イエスが生まれたので、ヘロデが怒って、ベツレヘム近郊の二歳以下の男の子が惨殺されたとか、クリスマスの物語は、なるほど、なるほどとうなずきながら聞く話ばかりではありません。
そもそもクリスマスそのものを考えてみれば、まったく意外なことで、ヨハネ福音書によれば、なにしろ神が人となった出来事というのですから、こんな意外なことはありません。
なおそれに輪をかけたようにサンタクロースは、空からトナカイが引くそりに乗って、煙突を通ってやってきます。それも夜中にというわけです。ちょっと知的な大人たちは、この意外性に非合理性を重ねて、こう言います。「そりゃね、クリスマスの物語は、とても美しい話だよ。でも子供には通じるけど、大人からみれば、おとぎ話のたぐいさ」。
しかし、そうは言わせないのが、聖書の凄さです。究極の意外性は、救い主の死と復活に尽きるでしょう。なにしろ神が神を見捨てるという絶望的な出来事を十字架に発見するでしょうし、命から死へという当然の帰結は、死から命へという逆転に置き換えられています。しかも、そこに聖書の真髄というべき救いの結論を得ているのですから、これほどの意外性はありません。
この意外性をよく自分のものにして、信仰の真理として、私たちに教えてくれたのはルターです。彼は言います。「キリストは悪魔の悪魔であり、死の死であり、罪の罪である」。「キリストは私たちの罪を引き受けてくださったのだから、罪は私にない。私の罪はキリストにある」。「罪がキリストにあるなら、罪はこの世にない。もし罪がキリストにないなら、罪はこの世にある」などなど。こうしたルターの言葉は、『ガラテヤ書大講解』のなかに出てくるのですが、意外と思いつつ、同時になるほどと頷くのではないでしょうか。
徳善先生の訳文のおかげで、身近になった、ルターの『ガラテヤ書大講解』をぜひお読みください。さらにさらに深く聖書の意外性の真理に触れることでしょう。ルター著作集第十一巻、十二巻『ガラテヤ書大講解上、下』、聖文舎発行。
(むさしのだより2003年12月号より)