ドストエフスキー『カラマゾフの兄弟』~「大審問官」伝説

佐藤 義夫

この小説(1879年)は淫蕩な父親であるフョードル・カラマゾフの殺害の犯人捜しををめぐって、彼の四人の子供たち、ドミトリイ(ミーチャ)、イワン、アレクセイ(アリョーシャ)、私生児スメルジャコフの間で展開される愛憎の物語である。

この小説の第二部第五編五章で無神論者の兄イワンが、復活のキリストと大審問官との間の想像上の対決、すなわち「大審問官」伝説を弟のアリョーシャに語る。この話の舞台は宗教裁判が行われていた16世紀のイスパニヤ、セヴィリヤの町である。大審問官は復活のキリストを捕まえて牢屋に連れて行き、鎖につないでしまう。大審問官は復活のキリストに向かって、荒野で悪魔によって石をパンに変えてみたらと誘惑されたときに、どうしてそれに応じなかったのか、ときびしく責めたてる。「人はパンのみに生きるにあらず」などと意志の自由を説いたために、人間は路頭に迷ってしまったのだ。石をパンに変える奇跡を行ったならば、人間はキリストにおとなしく跪拝したであろう。なぜならば、人間を服従させるためには奇跡・神秘・権威が必要であるからだ。このような大審問官に対してキリストは無言のまま歩み寄り、ただ接吻したという。

この大審問官の正体はローマ・カトリック教会なのか無神論的な社会主義なのかという議論もなされてきたが、読者は大審問官の雄弁さにしばし圧倒されてしまう。「人はパンのみに生きるにあらず」というのはその通りであるが、パンなくして人は生きることはできない。人はパンを求めて額に汗して蟻のように勤勉に働いている。世の中が不景気になると、パンのありがたみが痛切に思い起こされる。

パンか自由かという問題は形を変えていろいろな小説に表されている。たとえばA・ハックスリーの『すばらしい新世界』(1932年)の中の西欧大統領のムスターファ・モンドと野蛮人のジョンとの対話、G・オーウェルの『一九八四年』のウィンストン・スミスとオブライアンとの対決の中にも見いだされる。このパンか自由かという議論は、いつの時代にあっても人間にとって見過ごすことのできない重要な問題である。

 

(日本福音ルーテル教会機関誌『るうてる』1998年 3~8月号に掲載されたものです)