聖霊降臨後第二主日礼拝説教
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聖書箇所:マタイによる福音書9章35~10章8節
先程お読みした第一の朗読は、出エジプトの物語の一場面でした。ある方の言い方をすれば、旧約聖書の中でも最も大切な意味を持つものの一つ、ということです。
ご承知のように、イスラエルの民はアブラハムに遡ります。神さまのお告げを受けたアブラハムは、故郷を捨てて神さまが示された地、子孫に与えると約束された土地であるパレスチナに移り住みます。そこで、約束の子としてのイサクをもうけ、イサクはヤコブをもうけました。
このヤコブは4人の妻によって、後のイスラエルの12部族の始祖ともなる12人の息子たちを得ることが出来ましたが、父に溺愛されていたヨセフを妬んだ兄たちは、ヨセフを奴隷商人に売り飛ばしてしまいます。奴隷としてエジプトに連れてこられたヨセフは不遇な青年期を送りますが、王さまの夢を解き明かす機会が与えらえ、見事解き明かしたヨセフを気に入った王さま・ファラオはヨセフを宰相に取り立てます。
その頃、飢饉に見舞われていたパレスチナからヨセフのいるエジプトに兄たちが穀物を買いに来たことから再会を果たし、紆余曲折はありましたが和解することが出来、父ヤコブも含めた一族揃って、ヨセフを頼ってエジプトに住むことになりました。この頃は、ヨセフのおかげでイスラエルの民たちも特権的な地位を得ていたわけですが、時代が移り、政治情勢が変わったことによって不遇な時代へと突き進むようになりました。イスラエルの民たちは奴隷とされ、強制労働に酷使されるようになったのです。
また、新たに生まれてくる男子の赤子を皆殺しにするようにとの命令まで受けるようになります。まさに、民族存亡の危機でした。そんな圧政に苦しんでいた民を救い出すために、神さまはモーセを立てられ、出エジプトを計画されたのです。10の災いを含めた王との様々なやり取りを経て、ようやくイスラエルの民たちは、エジプトから出ていくことが出来ました。
その時に、あの有名な、いわゆる「紅海渡渉」の奇跡も起こりました。エジプトからの脱出を果たしたイスラエルの民たちでしたが、約束の地であるパレスチナまでの道のりも、決して簡単なものではありませんでした。その途中に立ち寄ったシナイ山の出来事が、今日お読みした19章から続いていくことになります。
そのシナイ山でモーセは神さまから次のような語りかけを聞きます。(3節~)「モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。『ヤコブの家にこのように語り、イスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見た わたしがエジプト人にしたこと また、あなたたちを鷲の翼に乗せて わたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い わたしの契約を守るならば あなたたちはすべての民の間にあって わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。
あなたたちは、わたしにとって 祭司の王国、聖なる国民となる』」。これは、イスラエルの民たちと神さまとの基本的な関係性と言えるでしょう。強いて言えば、私たち人と神さまとの関係性と言っていいのかも知れません。まず神さまはモーセに、今ここにいるイスラエルの人々が確かに「見た」という事実を告げよ、と言われます。見た、とは、体験した、と言っても良いでしょう。彼らは、確かに体験した。何を。救いを、です。
この出エジプトの出来事は、イスラエルの人々にとっては、全く予期していなかったこと、期待もしていなかったことでした。たとえモーセが非常に有能な人であったとしても、人ひとりの力で一体何ができるでしょうか。エジプトの人々からすれば、イスラエルの民たちは、安価で使い勝手のいい労働力です。不都合になれば、殺してしまえばいい。
彼らにとっては、一つの自分たちの所有物、財産にすぎない訳です。そんなものをみすみす手放すはずがない。事実、先ほど「10の災い」と言いましたが、なぜ10もの災いが必要だったかと言えば、その都度王さまが心変わりをしたからです。やはり、王さまをはじめ、エジプトの人々にとっては手放すのは惜しい存在なのです。しかも、当のイスラエルの人々からもモーセは一切支持されていませんでした。むしろ、モーセの訴えに懐疑的だった。そんなことが起こるはずはない、と。
むしろ、モーセの企みは自分たちをより窮地に追い込むようなものだと否定的だった。ですから、この出エジプトの目論見など成功するとは思えなかったのです。当のモーセ自身も最初はそう思い、神さまから遣わされることを躊躇したほどです。しかし、そんな彼らが「見た」のです。救いの業を。不可能と思われていたことが、現実に起こっていくさまをつぶさに見ていた。そして、自分たちの気持ちも変わっていくのが分かった。だからこそ、それは神さまの業、救いの業でしかないことを信じたのです。
不可能なことを可能にできるのは神さま以外にはありえないからです。ですから、こう言われる。「あなたたちは見た わたしがエジプト人にしたことまた、あなたたちを鷲の翼に乗せて わたしのもとに連れて来たことを」。だからこその、「今、もしわたしの声に聞き従い わたしの契約を守るならば」なのです。何の根拠もなく、そう命じられたのではない。強要されるのでもない。
確かに、あなたがたは見たはずだ。わたしがあなたがたを救ったことを。ならば、「わたしの声に聞き従い わたしの契約を守る」ことも無理からぬことではないか、と。これは、約束の伴う自発的な応答への勧めです。神さまの救いのみ業を見たからこそ、自ら進んで答えることのできる盟約なのです。ですから、その救いの出来事の記憶も新しい彼らイスラエルの民たちはこう言うことができた。「民は皆、一斉に答えて、『わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います』と言った」。
どうでしょうか。この言葉を語った時の民たちの喜びの表情が見えて来ないでしょうか。彼らはこのとき、確かに、強いられてでも強制されてでもなく、嫌々でも無理矢理にでもなく、あの悪夢とも思えるような現実から救ってくださった神さまに対して、喜んで、真心からこう語ったに違いないと思う。しかし、私たちは知っている。その後、この民たちがどのようになっていったかということを。先ほども言いましたように、確かに約束の地であるパレスチナへの道のりは決して簡単なものではありませんでした。
こんなはずではなかった、期待外れだった、と思えるような現実も多々あった。それらは確かに、同情できない訳ではない。しかし、彼らは、自分たちを苦しめていたエジプトを懐かしむことさえしだした。エジプトから出て来なければよかった、とさえ語りだした。つまり、救われなかった方がまだましだった、と言っているようなものです。神さまの救いの業の全否定と言ってもいい。しかも、彼らは他の神々、いわゆる偶像に心が奪われるまでになっていった。
つまり、神さまの救いの業の全否定に飽き足らず、他の救いを求めていた、ということでしょう。これは、明らかに、神さまを捨てた、ということです。神さまが人を、イスラエルの民たちを捨てたのではない。彼らが、イスラエルの民たちが、人が神さまを捨てた。当然、そんな状態では、この契約は破棄されたことになる。もはや、神さまにとって、彼らは「宝」でなくなるのは当然のことでしょう。神さまから見限られてもおかしくない。これが、イスラエルの民たちが辿った道筋です。いいえ、イスラエルの民たちに限定できるのだろうか。
私たちにだって身に覚えがあるはずです。明確に神さまを捨てた自覚がなくても、他の神々に乗り換えた覚えはなくても、神さまから遠く心が離れてしまい、もはや救いの事実も見えなくなってしまっている現実、信頼も期待もおけていない現実がある。そう、神さまが私たちを捨てたのではない。私たちが神さまを捨ててしまっている現実です。
そんな民たちを神さまがお怒りになるのも当然でしょう。私たちはどうも、この神さまの怒りに対してとことん否定的です。愛が裏切られたときの怒りが当然だということを知っているのに。私たちも心痛め、怒る。相手を愛しているからです。その愛している者の裏切りだからこそ怒りが生まれる。では、裏切られた者は、どんな態度に出るのか。復讐をしたくなる。同じ痛みを味わわせてやりたい、と思う。もう金輪際顔も見たくないと関係を断絶したくなる。
そういった神さまのお姿も、聖書には度々記されている。そうする権利が神さまにはある。一方的に裏切られ、契約が破られたからです。そうしても良かった。そんなそぶりも見え隠れしていた。しかし、神さまはどうしてもイスラエルの民たちを、人を、私たちを、見捨てることができなかった。愛することを止めることができなかった。憎しみに身をまかせることができなかった。
そして、本来あるべき救いの方法…、先ほどの出エジプト記に記されているような自発的な応答による契約では人を救い得ないならば、と他の方法を模索された。それが、今日の第二の朗読、神の独り子イエス・キリストによる贖いを信じる、という方法なのです。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
……実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。
今日の福音書で、イエスさまが宣教をされていた動機がこのように記されていました。「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」。イエスさまから見れば、神さまから離れてしまっている民たちの姿はそのように映っていたのです。もちろん、彼らはユダヤ人です。信仰がない訳ではない。しかし、当時の彼らの多くは神さまの愛のお姿も、救いのみ業も、自分たちを思いやってくださっている心も見えなくなっていた。
だからといって、そのことを銘々が自覚していたということとはイコールではないのです。羊飼いからはぐれてしまっていても気づかないことがある。その羊飼いの必要性・重要性に無自覚なときもある。目の前に広がっている草、現実ばかりしか目に入っていない時には、案外気づかないものです。外敵に襲われた時、食料がなくなったとき、喉が乾いた時、つまり、自分にとって危機的な状況に陥らなければ、羊飼いの不在に気づかないのかもしれない。
だから、ある意味のんきに生きることができる。しかし、困難が起こった時、生きるべき、向かうべき方向、道が見えなくなってしまった時、死の危険、恐れが迫って来た時、羊飼いのいない私たちは、とたんに太刀打ちできなくなるのです。イエスさまの目には、私たちはそんなふうに映っていた。だから、弟子たちに収穫の主である神さまに働き人を与えてくださるように祈るようにと促し、弟子たちを宣教へと遣わされました。
もう時間がないので一言。私たちも含めてかもしれませんが、「飼い主のいない羊」のように弱り果てておられる方々がこの世界には多くおられます。しかも、その大多数は、そのことに無自覚でいる。神さまと離れているのに、のんきでいる人々がいる。だから、宣教が必要なのです。そののんきさは永遠に続くものでは決してないからです。必ず「羊飼い」がいないことに困ってしまうときがくる。だから、宣教する。そして、その宣教に、私たちもまた用いられていることを、今日新たに覚えたいと思います。
《祈り》
・日本各地が梅雨に入りました。特にここ数年は温暖化の影響もあってか、毎年大きな豪雨被害が出ています。今年の梅雨もそんな懸念が出されていますが、どうぞ憐れんでくださり、大きな被害が出ないようにお守りくださいますようにお願いいたします。また、今年は特に新型コロナの問題もあり、避難所生活などにおける危惧もあります。
一人一人が、新型コロナに対する意識ばかりでなく、災害大国に住んでいる意識を持ちつつ、普段から備えなども怠ることのないように、また、いざという時の対策なども事前にしっかりと立てて行くことができますように、特に災害弱者と言われる方々などに行政の手などがしっかりと届いていきますように、どうぞお導きください。
・また、蒸し暑い時期にもなります。例年、熱中症にかかる方々が多くでますが、今年は特に新型コロナの影響もあり、マスクなどの着用によって、より熱中症のリスクが高まるとも言われています。本当に、あれもこれもと大変な状況の中にありますが、どうぞ一人一人をお守りくださり、特に熱中症にもなりやすいご年配の方々などをお守りくださいますようにお願いいたします。
・日本では比較的落ち着いているように見えますが、世界では相変わらず新型コロナウイルスが猛威を振るっています。どうぞ、憐れんでください。日本でも、いつ危険な状態になるか分かりませんので、十分に注意をしていくことができますようにお導きください。
日本でも世界においても感染症対策と経済活動という相反する難しい課題の舵取りを同時にしなくてはならない状況におかれています。指導する者たちが適切な判断をしていくことができるように、政争の道具にしたり、一部の支持者向けの判断ではなく、必要な判断を適切にしていくことができるようにもどうぞお導きください。
・アメリカからはじまった人種差別における抗議運動も世界に広がっています。それは、世界中で現に人種差別が横行しているといった表れでもあるのでしょう。どうぞ、人種差別をはじめとした様々な差別がなくなりますように。一人一人の人権を大切にする世界が広がっていきますように、どうぞ導いてください。
・北朝鮮も不穏な動きを見せています。アメリカと中国もこの新型コロナによってますます難しい状態になっているとも言われています。それ以外にも対立している国々、指導者たちも多くいます。どうぞ、世界が平和になりますように、悔い改めに導いてください。
イエス・キリストの御名によって。
アーメン