聖霊降臨後第14 主日 説教
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。
アーメン
罪の自覚、救いの喜び
今朝の福音書のテーマは、教会の中に罪を犯した人がいるなら、群れはどう対応したらいいかです。私たちは他人の罪に敏感に気付きますが、自分の罪に鈍感ではないでしょうか。罪を赦されるには、自らの罪を認めて悔い改め、相手に許しを請い求めます。相手から許され、天の神がそれを追認されて、罪の赦しが完成されます。なぜなら、罪の赦しは神の専権事項だからです。「ゆるし」を辞書で調べますと、罪は「赦し」の漢字が相応しいと思われます。赤はゆるめる、攵(ぼくにょう)は鞭打つ、両者から鞭打つことを緩める。つまり罪を赦す意味になります。そういえば、総督ピラトは主イエスを、十字架につける前に鞭打たせました。彼は鞭打つことで自分は主の罪を問わない、と意思表示をしたのはないでしょうか。
今朝の福音は語ります、「あなた方が地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなた方が地上で解くことは、天上でも解かれる。」私はこの言葉、つなぐ・解く、両者を逆の意味に理解していました。正しくは、つなぐとは罪に結び付けることであり、解くとは罪から解くことです。私たちにとって誰かが罪を犯した、と判断するのは心の重いことです。できれば避けたいことであり、放置しておきたいことです。
罪と言えばルターの宗教改革は、贖宥状〔免罪符〕の販売をめぐり、異議申し立てから始まりました。生きている間に罪の罰を自らの責任でとる、または死んでから煉獄で償う、と当時考えられていました。贖宥状を買うことで、それらの償いを免れることができる、と教会が主張したからです。私たちは罪からの赦しをどのようにされるのでしょうか。
今日のルーテル教会では、礼拝の中で「罪の告白」と「ゆるしの祈願祝福」があります。前の一週間の行いと思いを振り返ります。その告白は一般告白であり、個別告白を求めるなら、牧師に面談を求めることができます。罪の自覚なしに赦された、と安堵してしまうのは、安価な恵みと言われます。神の恵みといいながら、あらゆる罪が神の愛のマントに覆われ、悔い改めなしに済まされるからです。主イエス・キリストが自らの命に代えて、私たちに与えられた救いの賜物を、心から感謝して受け取りたいものです。
神学生時代にルーテル神学校のS 先生が、教職神学セミナーで耳の痛い話をされました。最近の説教は罪を語らない、牧師が罪を語れない、と言われました。そう言われると、確かに説教で罪を語ることを、避ける傾向があります。牧師にとって罪の認識を語るのは、難しく感じられるからでしょう。罪がしっかり語たられた後、福音が力強く伝わります。私たちは罪をきちん自覚した後に、罪を赦され救われた喜びがあります。
教会内で罪の赦し
今朝の福音は二つの譬えに挟まれた、サンドイッチの中身になります。直前の「迷い出た羊」の譬え、直後の「仲間を赦さない家来」の譬え、両方の文脈の中にあります。ですから、前と後ろの譬えの意図をきちんと捉えて、福音を納得して受け取れます。「迷い出た羊」の譬えは語ります、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」また「仲間を赦さない家来」の譬えは、「7 回どころか7 の70 倍までも赦しなさい。~あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」私達にどこか怖い話に聞こえます。
主イエスは「兄弟の罪を全て赦しなさい」、さらに「兄弟を救う努力を惜しむな」と求められます。教会における罪の赦し方をどのように捉えるのか、御言葉に聴いてまいります。
個々人の罪に対する責任は、教会の群れの問題であると考えられます。つまり、罪は個人的なものではなく、共同体の問題として捉えられます。教会の群れにいる兄弟が罪を犯したなら、皆さんはどうされますか。聖書には、三段階にわたる方法が示されています。
第一段階は、「行って二人だけのところで忠告しなさい。」相手の心を傷つけないよう、密かに忠告をします。忠告すると訳されたギリシア語は、「罪を明らかにする」という意味です。もし聞き入れられたなら、失いかけた兄弟を取り戻すことができます。百匹のうち一匹の迷い出た羊を、捜し当てたのと同様です。そこには迷子の羊だけでなく、群れの99 匹にも喜びがあります。
第二段階は、「聞き入れなければ、他に一人か二人、一緒に連れて行きなさい。~二人または三人の証人の口によって確定されるためである。」自分以外の証人を加えて話し合いに及びます。兄弟の罪を素直に戒めることは、旧約聖書にも記されています。「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」《申命記19:15》罪の認定を二三人で行います、訓戒をする目的は非難や中傷することではなく、罪を確認して兄弟を取り戻すことにあります。
第三段階は、「それでも聞き入れなければ、教会に申し入れなさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様にみなしなさい。」兄弟が教会の忠告に耳を貸さないなら、罪を明らかにして教会から排斥しなさい。でも教会が共同体の仲間を裁いて、拒絶してもいいのでしょうか。なぜなら、兄弟を群れから追い出すことになるからです。
主イエスはかつて言われました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」ですから教会から排除しなさいとは、主のお言葉とはどうしても思えないのです。教会の群れの一人を裁いて、罪人とするからです。私たちの知る主は諦めずに、悔い改めを待たれる方ではありませんか。
私たちも罪を犯す
今朝の福音から、あなたが罪を犯して忠告を受ける立場になれば、どうされるか考えてみてください。立ち位置が変わると聖書の御言葉が、全く違って聞こえてきます。第三段階で言われる、異邦人か徴税人と同様に看做されるとは、罪人とされて神の前に立てなくなります。神とのつながりがなくなり、天の国へ招かれるチャンスを失う、それはキリスト者にとって一大事です。18 節の言葉がポイントになります。
「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」つなぐとは罪と認定することであり、反対に解くとは罪を赦すことです。教会の判断する罪は、天においても追認されます。教会は罪を犯した人を罪に結びつけるか、罪から解き放つか、軽々しく判断できません。
罪を犯した人が罪を認めて、悔い改めるよう、私たちは共に祈ります。主の御心は一人も滅びることなく、全ての人を天の国に招きたいのです。それゆえ、私たちは仲間の罪が赦されるよう祈り、主が祈りをきっと叶えられます。主イエスはこう言われます、「どんな願い事であれ、あなた方のうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」
その他に怠りの罪もあります。やるべきことをしないことも、罪のひとつに数えられます。旧約聖書はこう語ります、「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。」《レビ19:17》兄弟が罪を犯したと気づいたのに、彼を戒めない、彼に忠告をしない、それも罪だと言われます。教会の群れの中に、罪を犯した人がいるなら、放っておけないのです。彼を容易く切り捨てず、悔い改める手立てを尽くすよう、私たちに求められます。滅びることが父の御心ではないので、兄弟を罪から救う努力を惜しんではなりません。
共におられる神
福音の結びの言葉に注目しましょう。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」地上で教会の群れが共に祈る時、天の父も祈りに加わられ、祈りが聞き届けられます。主イエスの御名によって、私たちが必死に祈るならきっと聴かれます。なぜなら、主が私たちと共にいてくださるからです。主イエスが降誕された折、主の天使から約束されています、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエル〔神は我々と共におられる〕と呼ばれる。」
《1:23》また、復活された主イエスは大宣教命令でも「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」《28:20》と約束されています。小さな者が一人も滅びないよう、主の名によって集められた教会は、罪を犯した者に悔い改めるよう心を尽くします。兄弟同士の交わりは、仲間を群れの中に止めるよう最善を尽くします。父の御心は私たちが滅びることではなく、九十九匹を残して迷い出た一匹を捜し出される、その御心から兄弟に忠告するよう促されます。
忠告することは、相手に正面から向き合わなければできません。忠告されることは、気持良いものではありません。時に相手が頑なになったり、相手から恨みを買ったりします。兄弟として受け入れる時、互いに赦し合うことが求められます。私たちの努力だけでは難しいかもしれません。しかし、私たちの祈りが主イエスに聞かれる時、兄弟に寄り添って忠告ができます。ルターは「罪人にして同時に義人である」と言いました。罪人と義人は紙一重の違いであり、時に両者の逆転が起こります。私たちが滅びることは、天の父の御心ではありません。
主イエスは約束されました、「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心をひとつにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」教会は悔い改める者を赦して、その者を罪から解き放つ共同体です。教会が罪を犯した者を赦す時、天でも父はその者を赦されます。それは教会が罪を解くという、赦しの喜びとなります。共同体がひとつになり、主イエスはいつもその中におられます。一人の祈りが他の人の祈りとひとつになり、主は私たちをひとつの群れに結び合わされます。
《祈り》
恵み深い主よ。あなたが臨在される礼拝に招かれ、感謝をいたします。私たちと共にいると約束された主イエスは、私たちの集まる中におられます。地上で心をひとつにして祈るなら、主はそれを叶えてくださいます。私たちが共に祈りながら、地上で兄弟の罪を解くことを、神が天上から解いてください。この祈りを主イエス・キリストのお名前によって、御前にお捧げ致します。アーメン
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン