全聖徒主日礼拝
黙示7:9~17 ヨハネ一3:1~3 マタイ5:1~12
信仰の先達
今日は全聖徒の日です。私たちは信仰の先達の皆さまを思い起こして、天と地で共に礼拝に与ります。例年ですと春と秋に墓前礼拝を行いますが、今年はコロナ禍のため、残念ながら両方とも中止になりました。毎年大勢の方々が東教区の墓地に集まり、天に召された方々を偲んで祈ってまいりました。私は5月に小平霊園の教区墓地に、一人墓参りに行ってまいりました。どなたかが献げてくださった黄色い花が、新緑に包まれてひときわ映えていました。墓誌にあるお名前一つひとつに目を通し、存じ上げる方々を思い起こしました。お世話になった恩師、信仰生活を共にした知人や友人、懐かしいお名前を幾つも見つけました。墓前礼拝や納骨式など何度も来ていたのに、全てのお名前を初めて読みました。日本福音ルーテル教会が北海道から九州まで、130余りの礼拝所が立てられ、先達の信仰が私たちに引き継がれています。
天上の世界に招かれた先達の方々は、どんな暮らしをされていらっしゃるのでしょう。今日の三つの日課は私たちに、天の国のイメージを与えてくれます。天の国はこのような所であると、主イエスは福音書の譬えから何度も話されました。残念ながら天上の世界は、私たち地上に生きる者に隠されています。いつか天の国に招かれた時、その世界はこんなだったと、知ることができると思っています。
山上の説教
今日の福音の日課は、皆さまよくご存じの山上の説教です。主イエスは弟子たちに語られます。「心の貧しい人々は、幸いである。」初めてこの御言葉を聞いた時、私にはどこか違和感がありました。ギリシア語から直訳するなら、「霊において貧しい人々は幸いである」となります。礼拝における聖書朗読は新共同訳が使われますが、和訳には様々なものがあります。例えばフランシスコ会訳は、「ああ幸いだ、神に寄りすがる貧しい人たち。」岩波訳は「幸いだ、心の貧しい者たち/霊において乞食である者たち」とあります。塚本虎二訳は「ああ幸いだ、神によりすがる貧しい者たち。」それぞれニュアンスが違いますが、この箇所では塚本訳が一番しっくりする気がします。貧しさのゆえに金銭や財産に頼ることができず、神にだけ望みを抱くことができ、だからこそ幸いだと言われます。なぜなら、貧しい人々は神に心から頼り、神との確かな関係が結ばれ、神の子とされるからです。それこそが財貨に頼るこの世の知恵や常識を凌駕する、逆転の福音となります。
ところで「世界で一番貧しい大統領」として注目を集めた、南米ウルグアイのホセ・ムヒカ前大統領が日本に来ました。その折インタビューを受け、「世界で一番貧しいという称号をどう思いますか」、と尋ねられました。ムヒカ氏は答えました、「みんな誤解しているね。私が思う『貧しい人』とは、限りない欲を持ち、いくらあっても満足しない人のことだ。でも私は少しのモノで満足して生きている。質素なだけで、貧しくはない。」まさに心の貧しい者の幸いを、地で生きる姿勢がそこにあります。
主イエスから幸いの呼びかけに、ムヒカ氏のように応答できるといいですね。貧しさとか富とかに拘らず、あなたの心はどこにあるのか、神と向き合っているのか問われています。財貨に信頼をおかず、それに心を委ねず、富を偶像としない、それは容易いことではありません。この世は私たちを貪欲へと誘い、心の置き所に揺さ振りをかけてきます。ルターはこの箇所から語りました。心はお金や富に縛り付けられていないか、富んでいても霊的に貧しい人もいますし、逆に貧しくとも霊的に豊かな人もいます。神は自分の富にこだわる人が、貪欲に財貨を求めても満足できず、喜ぶこともできないようにされます。あなたにその気があれば、心の平安と安息を得て、かしこで永遠に心の求めるものを得るのである。
主イエスは貧しい人々の外、悲しむ人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々、憐み深い人々、心の清い人々、平和を実現する人々、義のために迫害される人々を、幸いであると祝福されます。その初めと終わりに「天の国はその人たちのものである」と約束されます。私たちキリスト者はぜひとも、天の国に招かれたいと望んでいます。
神の子とされる根拠
信仰の先達の皆さまは天の国に招かれ、詩編23篇にある羊の群れに加えられていると思います。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」天の国のイメージは、かつて訪れた岩手県の小岩井農場で、遠くから近づく羊の群れを思い起します。詩編23篇は「主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう」と結びます。羊の群れは天の国に永遠の住処を与えられると、約束成就の情景が歌われています。
山上の説教における約束は、終末の約束でもあります。第二の朗読ヨハネの手紙一3:1は語ります。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。」神はご自分の愛を私たちに頒(わ)けられ、私たちにイエス・キリストを贈られ、私たちは神の子と呼ばれます。ヨハネ福音書1:12にその根拠があります。「言葉は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」言葉はイエス・キリストを指しています。主イエスを受け入れ信じる人々には、神の子とされる資格を与えられるのです
私たちの将来の姿
天に召された方々は天の国に招かれ、どのようにされていらっしゃるのでしょう。天から私たちはこんな暮らしをしていますと、どなたかそっと教えてくれないかな、と密かに期待してきました。ヨハネの手紙一3:2に語られています、「愛する者たち、私たちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。」残念ながら、私たちがどのようになるか明かされません。主が再び来られる時、私たちが御子に似た者とされます。どのように御子に似た者にされるのか、楽しみに待つより他ありません。
天上の礼拝
第一の日課はヨハネの黙示録7章です。黙示録は隠されている事実が、明らかにされることです。私たち人間の知恵では分からない、神の秘められたご計画があります。それを、小羊イエス・キリストが天使を通して、記者ヨハネに幻や象徴にして明かされました。黙示録は未来への確信と現在の勇気を、私たちに与えてくれます。
ヨハネが垣間見た天上の世界では、白い衣を着てなつめやしの枝を手に
した、大勢が大声で叫んでいます。「救いは神と小羊のものである。」白い衣は汚れのないもので罪からの解放を、なつめやしの枝は勝利のシンボルで苦難からの解放を表します。人々の解放は、神と小羊によってもたらされます。神は独り子イエス・キリストを、生贄の小羊のように屠って、私たちを罪から解き放たれました。
罪を洗い清めてくれたイエス・キリストに、私たちは望みをかけて生きています。それが小羊イエスへの信仰となります。この聖卓の正面に、勝利の旗をもった神の小羊が描かれています。私たちは聖餐に与る時、主イエスを象徴するパンとぶどう酒をいただいて、罪赦される者とされます。信仰の先達の皆さまは小羊の血で洗われた白い衣を着て、御子に望みをかけて天の国に招かれています。全聖徒の日の礼拝から私たちも、ぜひその恩恵に与りたいと祈っています。
ヨハネ黙示録に天上の礼拝の様子があります。「天使たちは皆神を礼拝して、こう言った。『アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン。』玉座におられる小羊が、白い衣を着た人々の牧者となられ、命の水の泉へ導かれ、神が彼らの目から涙をすべて拭われます。私たちの罪をすべて贖われ、痛みを癒され、悲しみを慰められます。そんな神の国に招かれるよう願いながら、信仰の旅路を共に歩んでまいりましょう。