【 テキスト・音声版】2020年11月29日 説教「 救いの時は近づいている 」 浅野 直樹 牧師

2020年11月29日 待降節第一主日礼拝説教



聖書箇所:マルコによる福音書12章24~37節

今日からアドヴェント・待降節がはじまります。何度もお話しして来ましたように、教会の暦としては、このアドヴェント・待降節から新しい一年がはじまっていくことになります。これまで何週間か、「終末(世界の終わり)」について考えて来ました。それは、ちょっと重苦しい内容…、̶̶死といったことも取り上げて来ましたので̶̶だったと思います。それは、この一年の終わりに際して、「終わり」(世界の、あるいは自分自身の)について考えてみよう、ということだったのでしょう。

そんな重苦しい「終わり」の季節も終わり、ようやく今日から新しい一年がはじまっていくことになる。しばらく続いた「終末」といったちょっとおっかなびっくりのトンネルを抜けて、ようやく晴れやかな気持ちで一年をはじめることができる、と思いきや、なんと、もう皆さんもお気づきだと思いますが、今日の、この一年最初の日課も、終末に関する記事が取り上げられていました。ちょっと話が違うではないか、と言いたくもなります。しかも、今日から待降節です。クリスマスという喜びに満ちた時に向かって行くはずなのに…。

実は、待降節は、もう何度もお聞きになられて来たと思いますが、イエス・キリストの降誕・誕生を待ち望む時、という意味だけではありません。キリストの再臨を待ち望む時でもある訳です。そして、これもこれまで何度もお話しして来たことですが、キリストの再臨と終末はセットで考えるべきですから、この待降節に終末のテキストが取り上げられているということでしょう。


今日の第一の朗読の中でこんな言葉が出てまいりました。「あなたは憤られました。わたしたちが罪を犯したからです。しかし、あなたの御業によって わたしたちはとこしえに救われます」。素晴らしい言葉だと思います。聖書の歴史は「救済史」と言われます。救いの歴史です。私たち人類が罪を犯してから、どうしようもなく道を踏み外してしまうようになってから、神さまは常に私たちを救おうと動かれて来た。歴史に働きかけてこられた。時には厳しい叱責の言葉で、時にはいたわりの言葉で、立ち返るように立ち返るようにと、罪から離れ命を得るようにと、私たち人類の側が必死に救いを求めて来たのではない、神さまの方が必死に私たちを、人類を救おうと欲してこられた。それが、私たち人類の歴史であると聖書は語ります。まさに、その通りだと思います。

そして、そんな神さまの思い、救いの完成の時こそが、終わりのとき、最後に結論が出される時、イエスさまが裁き主として、救い主として再び来られる時、つまり、再臨の時なのです。ですから、以前もお話ししましたように、「終末」とは、一方では裁きを伴う恐ろしい時であると同時に、神さまの恵みの中に生きる者にとっては、救いが完成される、まさに喜びの時と受け止められて来たのです。

ですから、そこに希望がある。今は辛く、厳しい時代の中にあるとしても、一寸先は闇としか思えないような現実のただ中にあるとしても、いずれ、その時が来る。救われる時が、救いの完成の時が、必ずやってくる。だから、希望を持つことができる。希望に生きることができる。希望を見失わずに済む。そのように、数え切れないほどの先輩・先達たちが生きてこられた。希望を胸に抱いて生き、そして眠りにつくことができた。その希望を、この一年のはじめにあたり、もう一度私たち自身も心新たに刻んで行く必要があると思うのです。

今年は新型コロナの感染という途方も無い出来事に私たちは遭遇しました。そして、おそらく、来年になっても、簡単には消え去ってはくれないでしょう。もちろん、大変な出来事です。これで苦しんでいる人々も多い。仕事を失い、生活に困り、将来を見通せず、生きる力を失ってしまっている人々も決して少なくない。今回のそのような問題は、特に経済的な面が非常に色濃く出ていると思います。そういう意味では、国や地方自治体の指導者たちに、早急に具体的な対策を講じて欲しいと切に願っています。

場合によっては̶̶緊急事態です̶̶少し余裕のある人々から臨時に税金を取り立てても良いのではないか、と個人的には思っています。そういった分配に必要な基金に、私自身わずかかもしれませんが出したいとも思っている。手厚い援助をしていただきたいと心から願っています。簡単なことが言えないことは重々承知しているつもりですが、また精神論で片付けるつもりも毛頭ないのですが、それでも、人生とは、世界とは、そういうものでもあるのではないか、とも思うのです。良いことばかりではない。辛いこと、うまくいかないこと、苦しいことも織り込み済みなのが人生なのではないか、と。

私は最近、キルケゴールという人について書かれている本を読みました。私にとっては、非常に難解で分からないところも多々あったのですが、その中でキルケゴールの思想について、このように解説されているところがありました。「実存的な姿勢こそがそれである̶̶これがキルケゴールが与える答えである。永遠性から切り離され、時のうちに有限にして儚く生きるしかないという自己の否定的な現実を、とことん直視し、それを忘れることも誤魔化すこともせず、さらに人畜無害化することも技巧的に解釈することもせず、もちろん美化することもせず、それと真っ向から向き合い対決すること、たとえそれによって絶望が深まるばかりであるとしても、そうすることだ」。

このキルケゴールは実存哲学の先駆者と言われる人ですが、彼にとっての実存は有限で儚い存在でしかないといった否定的な理解だ、と言います。そして、むしろ、その現実を誤魔化さずに直視することこそが、たとえそれによって「絶望が深まる」としても、人が生きる、ということではないか、と問う。そして、彼はこんな言葉も残しています。「キリスト者は戦いのもとに、疑いのもとに、痛みのもとに、否定的なもののもとにとどまるのではない。そうではなく、勝利を、確信を、至福を、肯定的なものを享受するのである」。自分にも世界にも絶望するしかないのかもしれない。

しかし、それゆえに神さまに向かうことによって自らの内にはないありとあらゆるもの、彼の言い方で言えば勝利、確信、至福、肯定的なものを逆に手に入れることになる。そんなふうに言っているように思います。そして、それは、再臨の希望にも相通づるものになるのではないか、と思うのです。今は見えなくとも、今は感じられなくとも、今はそうは思えなくとも、必ず救いは完成する。なぜならば、それがイエスさまの約束だから。そのためにこそ、イエスさまは再び私たちの元に来られて、私たちと顔と顔とを合わせるように会ってくださるのだから。

今日の福音書では目を覚ましていることが求められていました。では、逆に、私たちはどういったときに眠り込んでしまうのか。もちろん、自然な眠気に襲われる時もあるでしょう。それは、私たち自身が本来的に持っている「弱さ」と言っても良いのかもしれない。しかし、意図的に、といったこともあるはずです。まず第一に、目を覚ましている必要性を感じない、ということでしょう。それは、救われる必要性を感じない、ということかもしれない。あるいは、現実逃避的に眠りに逃げてしまうことだってあるのかもしれない。

信仰していたって、祈ったって現実は何も変わらないのだ、と。そうではないはずです。それがいつかは私たちには知らされていませんが、イエスさまは必ず私たちのもとにやって来られます。救いの完成をたずさえて。そのことを信じて、この年をはじめていきたいと思います。



祈り
・先週、26日に敬愛する兄が92年のご生涯を終えて、あなたの元に召されて行かれました。生前与えられたあなたにあるお交わりに、心より感謝いたします。この新型コロナの流行もあって、28日にご家族のみでご葬儀を行いましたが、どうぞ、ご家族の上に、豊かな慰めと励まし、また、あなたにある希望をお与えくださいますようにお願いいたします。また、私たちも、兄との再会を胸に刻みながら信仰の歩みを全うすることができますようにもお導きください。

今日からアドヴェント・待降節を迎えましたが、この日本においても新型コロナの感染拡大が収まりません。医療の現場も相当逼迫し、疲弊していると聞きます。どうぞ、憐れんでください。感染予防には、一人一人の意識と行動が物を言うのでしょう。どうぞ、もう一度気を引き締めて、特に重症化しやすいご高齢の方々に感染が広がっていかないような工夫をしていくことができますように、どうぞお助けください。

一方で経済を止めることによって、多くの方々が生活に困難を覚えておられます。国や地方自治体などには、それらの方々に対する対策を早急のうちに行えるようにお導きくださいますようお願いいたします。

主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン