【 テキスト・音声版】2020年12月13日 説教「 証する者 」 浅野 直樹 牧師

待降節第三主日礼拝


聖書箇所:ヨハネによる福音書1章6~8、19~28節

今週の福音書の日課も、洗礼者ヨハネの物語が取り上げられていました。その洗礼者ヨハネについて、ヨハネ福音書ではこのように記されています。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」。ここにありますように、このヨハネ福音書では、洗礼者ヨハネとは「光」について証しをする者といった理解です。では、その「光」とは、一体どんなものか。

神の子羊 : Ecce Agnus Dei 1462~64: ディルク・ボウツ : Dieric Bouts アルテ・ピナコテーク バイエルン州立絵画コレクション Bavarian State Painting Collections


そのことを、このヨハネ福音書では冒頭に非常に丁寧に記していきます。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」。そんな神さまの言葉そのもの̶̶言葉は人格と言っても良いと思いますが̶̶を、神さまの心、思い、意思と全く一つであられる方、またその思いを実現する力そのものであられる方、また命そのものであり、人間を照らす光であられる方、イエスさまを…、イエス・キリストを証しするために登場した洗礼者ヨハネは、次にそのイエスさまについてこのように証ししていきました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と。

ちなみに、この「小羊」、ヨハネの黙示録では「屠られた小羊」と言われています。殺されていく小羊。命を取り去られる小羊。先ほどの「光」とは、なんというギャップでしょうか。しかし、ここにこそ、この両者の証言のギャップの中にこそ、神の子イエス・キリストの誕生の秘密・神秘があるのかもしれません。

ここまで考えていきますと、私は一つの絵を思い起こします。マティアス・グリューネヴァルトという人が描きました「イーゼンハイムの祭壇画」です。この祭壇画はいくつかのパーツに分かれており、いろんな場面の絵が描かれていますが、その中でもっとも印象深いのが、祭壇画の正面にありますイエス・キリストの磔刑の場面を描いたものです。いわゆる西洋美術では、このイエス・キリストの磔刑はよく取り上げられるテーマですが、その中でも最も凄惨なものと言われているようです。全身が皮膚病か何かに犯されているような痛々しい姿であり、十字架の上で首をガクンと横に垂らし、口は半開きで、唇の色も真っ青…。一度見たら忘れられない印象的な絵です。

イーゼンハイム祭壇画(第1面) マティアス・グリューネヴァルト (–1528) ウンターリンデン美術館


この作品は現在、ドイツに近いフランスのコルマールにあります「ウンターリンデン美術館」に収蔵されています。以前お話ししたかもしれませんが、もう20年近く前のことになるでしょうか、2~3週間ほどですがドイツに研修に行かせていただく機会がありました。同僚たちと4人で行ったのですが、そのうちの一人がどうしても見に行きたい、というものですから、半日近く車で移動して見に行きました。正直、私はそれほど興味がなかったのですが、この祭壇画の前に立った時、しばらく動くことができなくなりました。それほど圧倒的であり、改めてイエス・キリストの十字架の死を問われた思いがしたからです。

のちに、グリューネヴァルトがこの十字架のイエスを描くために、実際にペストで亡くなられた方のご遺体をモデルにしたとも聞きましたが、なぜこれほどまでにリアリティーにこだわったのか。諸説あるようですけれども、この祭壇画がどこに設置されていたものなのかということも重要だと思います。この祭壇画は、もともとは「聖アントニウス会修道院付属施療院礼拝堂」にあったものです。中世においては、特に貧しい人々の医療は主に修道院が担っていましたから、そういった今日的に言えば、例えば聖路加病院のような病院の中の礼拝堂にあったということでしょう。

そして、この施療院では主に麦角中毒者やペストの患者などをケアーしていたようです。そして、それらの患者たちは、この祭壇画を見て、自分たちの苦痛をあの十字架上のイエスさまも共に担ってくださっている、共有してくださっていると感じて、慰めを得ていた、と言います。そんな現実の苦しみを得ている人々にとっての礼拝堂だからこそ、そこにはより十字架の苦しみのリアリティーが必要だったのかもしれません。



神さまは、この地上がどうであろうと、私たちがどうであろうと、「我関せず」というような方ではありません。どうなるか見ていよう、と高みの見物と決め込んでおられるような方でもありません。ただ上から、私たちとは全く関わりのない世界から、光を注いで、それで良しとされる方でもない。そうではない。私たちの只中に、光を送り込むような方なのです。

たとえ、その結果、光そのものである方が、その世界から捨てられるようなことになっても、傷つけられるようなことになっても、それでも、その光を輝かせようとされる。この世界の中で。暗闇とも思えるような世界、私たちの只中で。そのために、神の子は来られた。神の言葉であり、命であり、私たちを照らす光であるイエスさまがお生まれになった。あの貧しく寂しい家畜小屋の中で。しかも、世の罪を取り除く屠られた神の小羊として。それが、私たちが祝うクリスマスです。

度々ご紹介しています雨宮慧神父が、今日の旧約の日課について非常に興味深い解説をされていますので、少しご紹介したいと思います。「イザヤ書56~66章は、紀元前6世紀末から紀元前5世紀初頭の預言者(第三イザヤ)の言葉。栄光が現れそうもない現実に人々が失望し、神への信頼を弱め、勝手に生き始めたときに、神への信頼を説いた預言者の言葉」。時代は、あのバビロン捕囚から帰還してしばらくしてのことです。

イスラエルの人々にとって、新バビロニア帝国によって国が滅ぼされ、捕囚の民として連行されるということは、世界の終わりを意味するような、決定的な出来事だったでしょう。しかし、突然、期待もしていなかった救世主が現れた。ペルシャのキュロス王です。彼は新バビロニア帝国を滅ぼしただけでなく、開放政策をとり、捕囚の民であったイスラエルの民たちが故国に帰ることを許してくれました。これは、神さまがなされた奇跡としか思えなかったことでしょう。意気揚々と故国に帰っていったイスラエルの民たちでしたが、しかし、待っていたのは期待していたようなものではなかったのです。

かつての栄光を取り戻すどころか、生きるのもやっとの生活。それが、先ほどの雨宮先生の解説にあるような失望感を生んだのでしょう。彼らは信仰さえも捨てるほどに、失望してしまった。何に。神さまに、です。神さまのみ業が見えないからです。とても神さまがいらっしゃるとは思えないような有様だからです。私たちにだって、その気持ちは良く分かる。今だってそうかもしれない。私たちは何度も、そのような失望感を味わってきたのかもしれません。だからこそ、です。見えているものにではなく、見えないものに、見えていないものに思いを向ける、向けさせる手が、指が必要なのです。それが、証人である洗礼者ヨハネであった。

先ほどのキリストの磔刑の絵には、向かって右側に洗礼者ヨハネが描かれていました。もちろん、史実ではありません。このとき、すでにヨハネは殺されていたのですから。しかし、彼はこの十字架の横に立っている。立って、その大きな手で聖書に記されている救い主とはこの方のことだ、と指し示している。それもまた、印象深い。
このヨハネが証したのは、光であるイエス・キリストです。しかし、この光は、世の罪を取り除く屠られた小羊として、もっとも激しく、また鮮明に輝いたのでした。

祈り

・神さま。どうぞ憐れんでください。新型コロナの感染が止まりません。北海道、大阪、東京と医療が逼迫している地域が増えています。また、このような状況がいつ全国的に広がるかも分かりません。医療の現場で働いておられる方々は、本当に悲鳴をあげています。どうぞ、憐れんでください。自分のことばかりでなく、重篤化しやすい方々のことを、医療現場の方々のことを考えて行動していくことができますように、今一度国民全体が心を新たにしていくことができますようにお導きください。

確かに、このコロナ禍で経済的に困窮している人々も多くおられます。経済活動も重要かもしれませんが、違った形での援助ができないか、国の指導者たちに良き知恵を与えてくださいますようにもお願いいたします。また、私たちも出来る支援の手を広げていくことができますようにお導きください。

・このような中ですが、来週、クリスマスを覚える主日礼拝の中で、洗礼を予定しておられる方が与えられていることも大変に嬉しく思い、感謝しています。また、励まされてもいます。ありがとうございます。どうぞ、洗礼に向けて準備をされていますので、その思いを祝福してくださり、ますますあなたの恵みの中に包み込んでいってくださいますよう
にお願いいたします。

・また19日には、いずみ教会共同体とフィンランドの教会をzoomで結ぶ企画がなされますが、これらもどうぞ豊かに祝福してくださり、両者にとって幸いな時となるようにお導きください。
私たちの主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン