降誕節第2主日 礼拝
ヨハネによる福音書1:1-18
序 新年おめでとう
新年あけまして、おめでとうございます。昨年は新型コロナウィルスに翻弄された一年でした。日本国内だけでなく世界中の国々が、コロナ禍に巻き込まれ、どう対応したらいいのか分からずに、右往左往して今日に至っています。私たちが当たり前のように享受してきたものが、どれほどありがたいものであったか、あらためて認識をさせられました。私たちが生きていく上で何が大切なのか、どこに価値を見出したらいいのか、考えさせられた一年でした。そして、今年こそは落ち着いた生き方ができる年であってほしいと、心から祈っています。
先ほど歌いました讃美歌は、新年に神をほめたたえる49番を選びました。作詞は江口武憲牧師(江口再起先生のお父上です)、作曲は山田実先生(ルーテル神学校の聖歌隊を指導された)、お二人により作られたものです。1月最初の礼拝にこの賛美歌を歌って、主に向き合う気持ちを新たにされます。新年に欠かせない教会讃美歌です。また教団の讃美歌21にも載せられて、多くの方々にも歌われています。
2 言葉と神と主イエス
ヨハネ福音書の書かれた目的が、20章30~31節に記されています。「イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」共観福音書と呼ばれる、マタイ・マルコ・ルカ、その後に書かれたのがヨハネ福音書です。
その当時のキリスト教は今のトルコからヨーロッパに広がっていました。ヨハネ福音書は旧約を知らないギリシア人に、キリストの福音を宣べ伝えようとしました。そのためでしょうか、マタイやルカ福音書のように、降誕物語を一切語りません。降誕節であれば、「占星術の学者の謁見」や「羊飼いの幼子の訪問」などが分かり易く、相応しいものに思われます。でも、マタイ福音書は旧約の預言が今成就したとしばしば語ります。ヨハネ福音書で、神はイエス・キリストを通して私たちに働きかけられ、暗闇の中にいる人々に命の光を照らすことを最優先します。
降誕節第2主日の福音は、ヨハネ福音書1章「ロゴス讃歌」から始まります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」ギリシア人が好む哲学的な言葉「ロゴス」、そのギリシア語は、ひとつの漢字で「言」を「ことば」と訳されます。まるで禅問答を始めるかのような冒頭です。福音書なのにどこか取り付きにくい感じがして、なかなか御言葉にストンと合点がいきません。言と神がどのような関係にあるのか、言は誰なのか、何なのか丁寧な説明がないからです。しかし、14節に理解を助ける鍵があります、「言葉は肉となって、私たちの間に宿られた。」言は肉体を受けて人となられ、私たちの眼に見える幼子になられました。ですから、言はイエス・キリストと分かります。
さらに冒頭2節に続きます、「この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」全てのものは言葉によって創られたと聞くと、旧約聖書の創世記1章の天地創造の場面を想い起こします。
神が叫ばれた言葉による創造の秩序が、次のように形作られました。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。〔ここで言が発せられます〕『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」続けて第7の日まで天地を創造されました。神の言葉のある所に神はおられるのであり、神の発せられる言葉から出来事が起されました。
3 肉は私たちに宿られた
今朝の福音の頂点は、14節にあります。その御言葉を拝読します。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。」言葉が肉となるとは、受肉の出来事を指しています。宿ると訳された言葉が、理解を助けてくれます。洗礼者ヨハネは、イエス・キリストが私たちに宿ってくださる、その方がこの世に住んでくださると語ります。主イエスは乙女マリアから生まれ、神の栄光を示すために人間として生きられました。
つまり言は目に見える幼子となり、手で触れることができる方となられました。神から私たちに与えられる恵みは、憐みであり、優しさでもあります。神の優しさは、飼い葉桶に眠られる、力なき幼子にあります。幼子は神の御心に従い、弱い人間となり、救いを使命とする方となります。それはナザレのイエスが、ひとりの人間として、私どもに出会ってくださるのです。飼い葉桶の幼子の姿に、私たち人間の救いが包み隠されています。
14節の御言葉を受け入れる者は、主イエスを信じると告白する者とされます。私たちは礼拝の中で、使徒信条を唱えます。「私たちの主イエス・キリストを私は信じます。主は聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。」その信仰は、14節を根拠にして告白されます。主イエスが幼子となられて、私たちに与えられなければ、信仰告白は始まらないのです。
ルターは信仰についてこう語りました。「信仰深くあることは、業を行うことではない。一切の業を捨てて神を信じることである。それから業をする。信仰を欠くならば、いかなる業もよい業とはならない。業にこだわるな。」いかにもルターらしく、信じることに一切の妥協がありません。良き業を積んで義とされるのではなく、信じて神の義を与えられ、善き業によりお返しができるのです。
私はルーテル教会の幼稚園に通い、主の祈りを丸暗記していました。しかし40年前の青年時代に、むさしの教会の礼拝に出席しました。あまりに明解な信仰の告白にたじろいで、思わず声が小さくなりました。式文に書かれた告白の意味を文字から知ると、私には信仰があると思えなかったからです。ルーテル教会はルターの教理問答などから分かるように、信仰告白をとても大切にしています。ですから今は、使徒信条やニケヤ信条を唱える時、丁寧に言葉を確認するよう心がけています。
信仰に生きる共同体は、受肉されたことを受け入れて、神の独り子の栄光に目覚めます。
そのことを、ルターはこう語りました。「飼い葉桶から始めるべきです。理性を捨てなさい。理性によって理解すること、それは高く昇って天使の仲間入りし、その後をついていって、この方の至高の権威のもとに立とうとするようなものです。それは極度に危険に満ちた努力です。あなたがあまりにも長く学問を続け、神の知恵は究めがたいことを悟り、あなたの心は絶望しているのです。そのような人間は、墜落して首の骨を折ってしまう登山家のようなものです。
~あなた方が神と共に語り、主権ある神に会いたいと願うなら、あなたは高い所におられる神を見ることになるでしょう。~むしろ、飼い葉桶に行きなさい。そこでこそあなた方は神を見い出します。神が私どもの主であり、あなた方の救い主である事実を見るのです。」ルターはキリストの降誕は、「喜ばしき交換」であると言いました。クリスマスにはこの恵みである交換が起こります。永遠の命を持たれるキリストが、受肉されて人間となられた。私たち人間が神との交わりによって、真の命を得るためです。こうして私たちの罪はキリストにのみ込まれ、キリストの義と交換されるのです。
結び 受肉=隠された福音
今朝はルターの言葉を幾つも紹介しました。受肉における隠された福音を、ルターはとても大切にしていました。それが信仰への突破口になるからです。飼い葉桶の中におられる幼子こそが、私たちを信仰のスタート・ラインに立たせてくれます。
この後に選びました讃美歌34番は「我まぶねのかたえに立つ」と、パウル・ゲルハルト作詞、ヨハン・セバスチャン・バッハ作曲になるものです。ゲルハルトはルーテル教会の牧師であり、バッハもルーテル教会の音楽監督でした。まさに、ルターの「喜ばしき交換」のメッセージから、私たちがイエス・キリストを賛美するにふさわしい讃美歌です。
その賛美と祈りに声を合わせて、降誕の秘密が解き明かされてまいります。今年も神の言葉から、勇気と力を与えられて、混沌の世に光を見てまいりましょう。
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