顕現節第5主日
イザヤ40:21~31 Iコリ9:16~23 マルコ1:29~39
今ルターがいたら
新型コロナウィルスの感染が広がる中、心が重くなるようなニュースばかりで、心が励まされるニュースを捜していると気が付きます。今まで当たり前にしていたことができない、それがどれほど大切な平安であったのか、改めて思い知らされています。世界のコロナウィルスの感染者が2億人、亡くなった方が200万人という数字に、不安を感じるのは無理もありません。このコロナ禍にルターが生きていたら、どのようなコメントをくれるでしょうか。宗教改革が起こされた1500年代、ヨーロッパ各地はペストに襲われ、4人に一人が死ぬ厳しい状況にありました。ペストで死んでいく人々から離れて、安全な場所に避難せざるを得ない、人々は死と隣り合わせで暮らしていました。ルターも死への恐れを感じていたのではないでしょうか。
ルターは筆まめでしたので、彼の牧会の様子は手紙に残されています。T.G.タッパート編「ルターの慰めと励ましの手紙」という著作があり、内海望先生が訳され出版されています。その8章は「伝染病と飢餓の時の助言」という表題で、たくさんの手紙が紹介されています。当時福音主義の牧師たちが尋ねたそうです。「ペストの危険に直面した時、キリスト者は町から避難してもいいのか?」その頃ルターのいた町でも、ペストが流行っていたそうです。ルターの答えは、「説教者または牧師などの職務にある人は、死の危険が迫ってきた時、そこに留まり残る責任があります。キリストの明確な命令があるのです。しかし十分な説教者がおり、危険に際して全部が残る必要はなく、何人かがここを離れるべきと合意ができたなら、それを罪とは思いません。隣人の利益を損なわずに命を守り、死が避けられたら素晴らしいことです。」
感染者が増える中、エッセンシャル・ワーカー(欠くことのできない働き手)と呼ばれる医療従事者について、ルターは書いていました。「看護師である神様!医者である神様とは!むしろ、神様と比べたら、すべての医者、薬剤師、看護師はいったい何でしょうか?このことは人に病人の所へ行き、その必要のために奉仕する勇気を与えないでしょうか?~今ここで、あなた方の看護師である、医者であると約束してくださる神様に比べたら、すべての疫病や悪魔は何ほどのものでしょうか?」ルターは医療従事者に寄り添いながら、彼らを励まし力づけていました。
1520年代ルターの住むウィッテンベルグでも、ペストが身近に迫りました。徳善先生の著作「ルターと讃美歌」にもこう記されています。「周りの皆を他の町に避難させても、ルター自身は牧師の一人という自分の責任を感じてのこともあったろうが、動く気力もなかったのかもしれない。」95か条の提題から宗教改革が始まって十年経ち、ルターは体調が整えられず、鬱の傾向があったようです。その時期にルターの作詞・作曲した讃美歌450番が「神は我がやぐら」です。詩編46篇の「神は私たちの避け所、私たちの砦(とりで)」から着想し、「慰めの歌」と表題が付けられました。皆さまよくご存じの宗教改革の定番とされる讃美歌です。その3節「悪魔世にみちて、襲いせまるとも、勝ちは我にあり、などて恐るべき。」さらに4節「わが命も、わが妻子も、取らばとりね、神の国は、なお我のものぞ。」その背景にペストの影が忍び寄っていたと思われます。徳善先生はルター自身にとっても、「慰めの歌」に他ならなかったと言われています。
シモンの姑を癒す
先週の福音は、「汚れた霊に取りつかれた男を癒す」でした。その出来事はユダヤ教の会堂の礼拝の中で起きました。安息日だったので、悪霊祓いを行えない日でした。会堂に居合わせた人々は、権威ある新しい教えだと驚き、評判はガリラヤ中に広まりました。そして、今朝の福音の物語に続きます。
主イエスと弟子たち一行は、シモンとアンデレの実家に向かいます。するとシモンの姑、彼の義理の母親が熱を出して、床についていると伝えられます。主イエスならきっと病を癒してくださるに違いない、そんな期待があったのでしょう。主イエスが姑のそばに行き、手を取って起こされます。「起こした」と訳されたギリシア語動詞は、主イエスの復活や甦りに用いられる言葉です。主イエスの十字架からの復活、その伏線となるものでしょう。シモンの姑から熱が去っていきます。主の癒しが彼女から熱を追い出したのです。先ほどまで体調を崩していた女性が、一転して一行の食事の世話を始めます。「もてなす」と訳されたギリシア語は、食事の世話をするという意味で、ディアコニア〔奉仕〕に由来する動詞です。
主イエスの癒し
夕方になって日が沈むと、病に苦しむ人々や悪霊に取り憑かれた人々が、主イエスのいる家の戸口に連れて来られます。安息日が解かれて、活動できるようになります。主イエスの評判を聞きつけた人々が、大勢の苦しむ友人・知人を主の許に連れて来ます。きっと藁にも縋る思いから、シモンの実家に集まって来たのです。主イエスはそのひとり一人と、向き合われたのです。
主イエスはどなたなのか、直前の「汚れた霊に取り憑かれた男」で明らかにされました。悪霊が出て行く折、取り憑かれていた男が代弁しました。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」言い争ってもとても敵わない相手と、悪霊は主イエスを知っていました。却って主イエスから「黙れ。この人から出て行け」と叱りつけられました。主はご自身が何者なのか、悪霊によって明らかにされたのに認めません。「メシアの秘密」と言われ、ご自分が救い主であることを隠されます。
主イエスがメシアであると知った者に、沈黙を守るよう命令されます。十字架からの甦りを知り復活を信じ、メシアであると分かるまで、無用な混乱を避けるためです。皆の面前で悪霊を追い出されたのですから、評判にならないはずはありません。それも現代の文明の利器である、SNSのように一気に拡散したのです。そのくらいに、主の行われた悪霊祓いは衝撃的なものでした。
しかし主イエスはしるしを見て、集まって来る人々を信用されません。主のお言葉を聞いて信じたのではなく、行ったしるしを見て信じたからです。主イエスは決して祈祷師や魔術師ではありません。言葉によって伝えることで、ご自分を信じてほしいのです。結果良ければそれで良しとは、されない方なのです。私たちは目に見える出来事から、起きたことを確かな事実と認めたくなります。サン=テグジュペリの「星の王子さま」の言葉を思い出します。「ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。一番大切なことは、目に見えない。」私たちが何を根拠にして生きていくのか、気づかせてくれる今がそんな時ではないでしょうか。
ガリラヤ全地に行け!
翌朝早くまだ暗いうちに、主イエスは起きて人気のない場所で、一人静かに祈られます。主イエスの宣教される力は、父なる神と交わって強められます。神への祈りこそが、子イエスの背中を押してくれます。シモンたちは主イエスを追ってきます。病人や悪霊に取り憑かれた人々が、主イエスを探していると告げ、彼らのために戻るよう願い出ます。しかし、主イエスは思いがけない言葉を口にされます。
「近くの他の町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」主イエスはカファルナウムだけでなく、他の場所でも御言葉を伝えたいのです。主イエスが出て来られたのは宣教のためであり、癒しの業はそのプロセスのひとつです。主イエスの許に来ることのできない人々の所に、出向いていくことが使命なのです。その後、主イエスはがガリラヤ全地にある会堂を訪れ、宣教して悪霊を追い出されました。主イエスが第一声を上げられた、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」それから2,000年の時を経て、私たちは宣教された者の最後尾に連なる、恵みをいただいています。
—-お祈り——
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