四旬節第五主日礼拝説教
聖書箇所:ヨハネによる福音書12章20~33節
いよいよ来週は受難週となり、復活祭へと向かうことになります。
まだまだ新型コロナが落ち着いたとは言えませんが、緊急事態宣言が解除され、人数は限定されるでしょうが、それでも集まって受難週を、復活祭を迎えることができることは、個人的には大変嬉しいことだと思っています。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。今日の日課の言葉ですが、みなさんもご存知のように、大変有名な言葉です。この言葉が語られたのは、いわゆる「エルサレム入城」(この出来事が「棕櫚(枝)の主日」のいわれとなったわけですが)と言われる出来事の直後のようです。
これから行われる「過越の祭り」を祝うために遠方から来ていたのでしょう。そこで偶然、先ほどの「エルサレム入城」の場面を目撃していたのかもしれません。数人のギリシア人がイエスさまを訪ねてきました。「お目にかかりたい」と。その人々がその場にいたかどうかは定かではありませんが、その訪問をきっかけに語られたのが、先ほどの言葉です。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。これは、明らかにイエスさまの死を表すものです。このギリシア人たちの訪問で、イエスさまはご自分の死の時を、直近に迫っていたその時を悟られました。「時が来た」と言われているからです。
しかし、ちょっと不思議なのです。イエスさまはこうも語られているからです。「人の子が栄光を受ける時が来た」。ここでイエスさまは明らかに、ご自分の死と栄光とを結びつけておられる。ご自分の死は栄光なのだ、と。
果たして「死」とは、それほど栄光に輝くものなのでしょうか。悲しむべきこと、悼むべきこと、後悔・未練がつきまとうものであることは、私たちにもよく分かる。出来れば、避けたいとも思う。そんな「死」が、果たして「栄光」と結びつくものなのだろうか…。しかし、私たちにも、そんな「死」があることを知っているはずです。それは、誰かのために死ぬ、ということ。そんな死を、私たちは賞賛して止まないのではないでしょうか。
三浦綾子さんの代表作の一つだと思いますが、『塩狩峠』という小説があります。これは、実際にあった鉄道事故をもとに書かれたものだと言われます。主人公が婚約者と結納を交わすために札幌へと向かう道中のこと、塩狩峠の頂上付近に差し掛かった頃に、主人公が乗っていた最終車両だけが連結が外れて逆走してしまいます。これまで峠を登ってきたのですから、当然下り坂となり、また急なカーブも多かったのでしょう。このままでは脱線・転覆の危険がある。主人公は鉄道会社の庶務係でしたが、ある程度は知識もあり、まずはハンドブレーキで停止を試みますが、減速はしても停止にまでは至りませんでした。そこで、彼は自分の体を犠牲にして停止させることを思いついた。彼は線路の上に飛び降り、それが車両の勢いを殺して停止させることに成功します。彼は自分の命を犠牲にして多くの人の命を救ったのです。
これは、先ほども言いましたように、実際にあった鉄道事故をもとにして書かれた小説ですので、実際に行われた詳細については分かっていません。ハンドブレーキを操作しているときに、誤って転落した、といった説もあるようです。しかし、彼が熱心なキリスト者であったことは事実のようですし、その車両に乗り合わせていた人の証言からも、あながち全部が作り話しだとも言えないように思います。ともかく、そんな「死」を私たちは称賛します。栄光を讃えます。しかも、そんな「死」はこれだけではないでしょう。あの3・11の時にも、そんな「死」が多くあったのかもしれない。いちいち取り上げられたり、脚光を浴びることがなくとも、そんな「誰かのための死」というのは、枚挙にいとまがないのだと思います。そして、そんな「死」の数々が世界を支えてきた、といっても言い過ぎではないのではないでしょうか。
イエスさまの死は、どんな死だったのか。私たちのためです。私たちを、全人類を救うためです。滅びるしかないような罪の、歪んだ自己愛・自己中心の虜になっている私たちを、人類を、そこから救い出すためです。そのためにイエスさまは死なれた。十字架の上で死なれた。裏切られ、蔑まれ、人々の…、救うべき人々の憎悪と悪意の中で死んでいかれた。私たちのために…。だから、栄光を受けられる。当然だと思います。前述のように、私たちは、そんな誰かのための死を、惜しみなく賞賛するからです。ならば、なおさら、このイエスさまの死は称賛されて然るべきです。栄光を受けられて然るべきです。しかも、この死は神さまに従ったが故の死でもある。こう記されているからです。「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」。だから、神さまからも栄光をお受けになりました。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」と。
イエスさまは、そんなご自身の死について、こうも言われています。「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上からあげられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」。イエスさまは、ご自分の死が、この世が裁かれる時、この世の支配者が追放される時でもある、とおっしゃっておられます。
今も、「またか」と思うようなスキャンダルで政財界が揺れています。国会の場でも平気で嘘がつかれている。誤魔化しがまかり通っている。「記憶にございません」。いつの時代かと思う。何十年も前に一気にタイムスリップしたような感覚にもなりました。上に立つ人々がするのは、いつもトカゲの尻尾切り。役に立たないと分かると直ぐに切り捨てる。下の者たちは、捨てられないようにと顔色を伺い、忖度に走る。これが世、世の中。これが支配者がやること。力のない者、役に立たない者、自分に反対する者、気に入らない者、弱者たちは、いつも捨てられて、見捨てられて行きました。そう、世の常識では、救われるのは、上に立つごく一部の人たちだけです。しかし、イエスさまはご自分の死によって、そういった世界は変わるのだ、とおっしゃるのです。
「わたしが地上からあげられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」。「地上からあげられるとき」、イエスさまが十字架の上で死なれるとき、「すべての人を」…、そう全ての人、人種・民族・文化を超えて、性別も超えて、できるできないの能力も超えて、健康な者も、そうでない者も、傷を負って生きてきた者も、平穏に生きてきた者も、社会の片隅に追いやられていた者も、この世の成功を収めた者も、なんの差もなく、区別もなく、その死のゆえに、イエスさまの死のゆえに、全ての人をご自分のもとへ引き寄せる、と言ってくださっている。救いへと導いてくださる。それが、イエスさまの死の意味するところでもあるのです。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。イエスさまという一粒の麦は十字架の上で死なれましたが、その実は、さまざまな違いを超えて、時空を超えて、この日本にももたらされました。先ほどお話しした『塩狩峠』のモデルとなった人物もそうでしょう。そして、この私たちも…。その実りとしての「誰かのための死」という実が、また新たな実りをもたらすことにもなる。いい
え、それは肉体の死だけを意味するものでもないのでしょう。なぜならば、イエスさまは「自分の命を憎む」ことも求めておられるからです。自分を優先させていては、決して「誰かのため」とはなりません。「自分の命を憎む」…。自分よりもイエスさまの思いを、その教えを優先する。そこに、はじめて「誰かのために」も生まれてくるように思うからです。
イエスさまという一粒の麦は、「誰かのために」という実を結ばせるために死なれました。しかも、それは、自分にとって徳になる「誰か」でも、利益になる「誰か」でもなく、全く見返りのない「誰か」のために…、そう、愛の実を結ばせるためにイエスさまは死なれたのです。その結果(実り)である私たちであることを、受難週を前にして、もう一度イエスさまの十字架を見上げながら、噛み締めて行きたいと思います。
祈り
今日で非常事態宣言が解除され、来週から再び集会式の礼拝を再開できますことを心より感謝いたします。しかし、依然として新型コロナは収まってはおらず、徐々に感染の拡大傾向にもなりつつあると指摘されたり、また感染力のより高い変異株の心配なども出ています。どうぞ、私たちをお守りくださり、引き続き、しっかりと感染対策をしていくことができますようにお導きください。
昨日は、zoomを使ってのという新たな試みの中で無事に教区総会を終えることができましたことも感謝いたします。今、東教区では牧師不足という大きな課題に直面しつつあります。そのため、教区上げて、新たな教会のあり方を模索しているところです。どうぞ、御心に叶った歩みができますように。ここにも、何らかのあなたの思いがおありなのでしょう。これまでの歩みに感謝しつつも、牧師たちと信徒の皆さんとの協力の中で新たな
教会の姿を目指していくことができますようにお導きください。昨日は、また大きな地震が東北地方で起こり、津波注意報も出されました。
10年前のあの出来事を経験してこられた方々にとっては、その心中いかばかりだったかと思います。あの時の恐怖を思い起こされた方も少なくなかったかもしれません。どうぞ、憐んでください。そういった地震、津波の多い地域ではありますが、みなさんが平和に暮らせるよう
に、どうぞお助けください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン