【説教・音声版】2021年4月18日(日) 10:30 説教 「 疑いの中で 」 浅野 直樹 牧師

復活節第三主日礼拝説教
聖書箇所:ルカによる福音書24章36~48節



今、私たちは復活節の中を歩んでいます。ですので、当然聖書のテキストはイエスさまの復活に関わる箇所が取り上げられて来ましたし、また、復活の出来事について思いを向けて参りました。しかし、正直、復活を信じることは、決して容易いことではないことも覚えます。むしろ、十字架と復活は、宣教的に考えるならばマイナス面と言えるのかもしれません。ですから、そういった躓きの要素を取っ払ってしまって、愛の教えや「山上の説教」に代表されるような人生の意義を説いていった方が、宣教の成果に苦しみ喘いでいる私たちの教会にとっては突破口になるのかもしれない。そういった考えが起こるのも不思議ではありません。現に、聖書の時代にも既に見られるものです。

「エマオのキリスト」(1648年)レンブラント ルーブル美術館


先週の日課であるヨハネによる福音書20章では、残された弟子たちは、「家の戸に鍵をかけ」閉じこもっていたことが記されていました。なぜならば「ユダヤ人を恐れて」いたからです。イエスさまの十字架の死は、弟子たちの「イエス・キリストの弟子としての命」を奪うには十分な出来事だったのです。彼ら弟子たちは、イエスさまの弟子としては死んでいました。もし、イエスさまが十字架ではなく、英雄として命を落とされていたならば…、志半ばでの非業の死を遂げられていたとしたならば、弟子としての命はまだ続いたのかもしれません。むしろ、その命は燃え立たされ、先生のためにと、新たな活動へと(たとえそれがレジスタンス的なものであったとしても)進んで行けたのかもしれない。

しかし、イエスさまは十字架で死なれた。罪人の一人として処刑された。全くの敗北者として。これは、イエスさまに敵対する勢力の圧倒的な勝利だと思います。弟子たちも同時に葬り去ることに成功したのですから。
もし、十字架で全てのことが終わってしまったとしたら、何も残らなかったでしょう。何も…。そう、前述の愛の教えも「山上の説教」も何一つ残らなかった。よくあるように、辺境の片隅で起こったひとときの出来事として、誰にも顧みられず、歴史の中に埋もれてしまっていたに違いない。弟子たちが立ち上がることがなければ、鍵をかけ閉じこもっていた弟子たちが外に出て行くことがなければ、キリスト教なるものはこの世界に存在しなかったでしょう。私はそう確信する。

では、なぜ弟子たちは立ち上がれたのか。なぜ弟子たちは外の世界へ、しかもそこは未知なる世界、危険を孕んだ世界に飛び出して行くことができたのか。皆さんも自分のこととして考えてみて頂いたら良いと思います。もし、弟子の境遇にあった自分が立ち上がることができるとすれば…。いいえ、ただ立ち上がるだけではない。立ち上がって、悲しみを乗り越えて元の生活に戻るのではない。なおも十字架で死なれたイエスさまを救い主として、復活の主として証しして行くことができるとすれば、そこに一体何が起こったのかと、自分をそれほどまでに変えたものは一体何だったのかと、考えてみていただければと思います。ともかく、復活は信じ難いことです。それを否定したり、矮小化する必要はありません。むしろ、その真実にしっかりと目を向けるところからしかはじまらないのかもしれません。

当初からイエスさまの復活を信じた人は誰もいませんでした。復活のイエスさまを探す人もいませんでした。むしろ、人はイエスさまの亡骸を求めました。死を事実として受け止めるために。また、復活の証人の言葉も信じませんでした。それが、人の、私たちの偽らざる姿です。そうです。私たちは信じないのです。信じられないのです。イエスさまの言葉、約束も、その真実の姿も。私たちは、私たちの理解を超えたものをなかなか信じることができない。受け止めることができない。そんなことは、はじめから重々承知なのでしょう。だから、いつもイエスさまからはじめてくださる。イエスさまの方から来てくださる。亡骸を求め、見つけられずに悲嘆に暮れるマグダラのマリアに出会ってくださったのは、復活の主、イエスさまの方からでした。家の戸に鍵をかけ閉じこもっていた、閉じこもることしかできなかった弟子たちを訪ねてくださったのは、イエスさまの方です。

とぼとぼと失意のうちに戻るしかなかった弟子たちに近づいてきてくださったのもイエスさま。イエスさまの方がいつも働きかけてくださった。今日もそうです。復活のイエスさまと出会ったと聞かされても信じることができず、途方に暮れている弟子たちの真ん中に現れてくださったのは、復活のイエスさま。その姿を見ても、まだ信じられず、幽霊だと思い込んでいる弟子たちに、手や足をお示しになったのもイエスさま。

トーマスの不信 レンブラントRembrandtプーシキン美術館 1634年


先週の福音書の日課は、「疑り深いトマス」の物語でもありましたが、今日の物語と似ていることに気づかれたでしょうか。ご存知のように、復活のイエスさまが現れた時、そこに居合わせなかったトマスは、イエスさまの手の釘跡に自分の指を突っ込んでみなければ、その脇腹の傷跡に自分の手を差し込んでみなければ、決して信じない、と言い放ったのです。そして、次の日曜日、今度はトマスも一緒にいた弟子たちの中に復活のイエスさまが現れ、トマスが望んだように、あなたの指をこの私の手の傷跡に触れてみなさい、私の脇腹の傷にあなたの手を入れてみなさい、と告げられました。そして、こう言われた。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と。イエスさまはいつもこうです。私たちを信じる者とするために、一所懸命にしてくださっている。今日の箇所でも、幽霊だと怯えている弟子たちにご自分の手や足を示されたのも、そうでしょう。

「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。その一心でしてくださっている。それでも、まだ信じ切ることのできない弟子たちのために、魚まで食べて見せられた。考えてみれば、ちょっと笑っちゃいます。全然、神秘的でも何でもない。神の子です。復活の主です。ご自分の復活を証明するために、もっとやりようがあったのではないか、とも思う。もっとこう神々しく…。しかし、弟子たちは美味しそうに魚を頬張っておられるイエスさまの姿を見て、思い出したのではないか、と思う。いつもの食卓のあの懐かしいお姿を。ああ、本当にイエスさまは復活されたのだ。紛れもなく、ここにおられるのは、私たちの先生だ、と。

おそらく、私たちは誰も復活を信じることはできないでしょう。人の力量としては無理なことです。ただし、それは、復活の主が本当におられなければ、の話しです。もし、本当に、十字架で終わってしまっているとするならば、私たちの信仰も何も残らなくなってしまうのかもしれません。復活がなければ、十字架も霞んでしまうからです。復活の主がいてくださる。イエスさまは私たちのために、確かに肉体を持って、紛れもなくご本人として復活してくださった。そして、誰一人信じようとしない弟子たちの中で、不思議なことをはじめてくださった。この私たちのためにも。

不信仰…。上等です。復活など信じられない…。当然です。それが、紛れもない私たちです。しかし、そんな私たちの只中で働いてくださっているイエスさまを否定してはいけません。私たちではない。イエスさまが働いてくださっている。イエスさまが信じようとしない私たちに向かって、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」とご自身を示してくださっている。そして、私たちの中にそんなささやきが響き渡って何かが芽生えはじめるのです。私たちではない。イエスさまの業です。それを拒んではいけません。その芽を摘んではいけません。この時ばかりは、「信じられない」という自分に素直にならないで、ただ心を開くことです。自分自身を信じるのではなく、イエスさまを信じると。でないと、せっかくのそれは幽霊になってしまうかもしれません。そして、結局、何も残らなくなってしなうかもしれない。

もちろん、私たちはそんなことは求めていません。イエスさまを、その復活を、その意義を信じたいと思う。だからこそ、このイエスさまの働きに、もっと素直になっていきたいと思うのです。

祈 り
新型コロナの蔓延、また変異株の増加で、今大阪の医療現場が大変な状況になっていると聞きます。すでに重症患者数は確保病床を上回り、治療が行き届かなくなっています。また、医師、看護師たちも疲弊しています。どうぞ、憐んでください。このような状況下に
なっても、なかなか人の流れがおさまりません。どうぞ、一人一人の心に働いてくださり、他者を思いやる行動をすることができますようにお導きください。また、政府、行政の対応も速やかに行われますようにお導きください。首都圏も予断を許さない状況になって来ました。どうぞ、私たちをもお守りくださいますようにお願いいたします

ルーテル学院大学、神学校の新たな年度の歩みをどうぞ豊かにお導きくださいますようにお願いいたします。新型コロナの蔓延で、今後どうなるかは分かりませんが、新入生も多く与えられましたので、彼らの学びやまた学校生活などが守られて、整えられていきます
ように、どうぞお助けください。また、教師・職員もお守りください。
家族を亡くされ、辛い思いをされておられる方々が多くおられます。どうぞ、憐んでくださいますように。平安と希望に満たしていってくださいますようにお願いいたします。

悩みのうちにある者、絶望に追い込まれている者をかえりみ、助け導いてください。病床にある者、死に直面している者にいやしと慰めをお与えください。正義のために苦しむ者、自由を奪われた者に勇気と希望を与えてください。闇の中を歩む者に、あなたの光を
注ぎ、計り知れない恵みのみ旨を示してください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン