聖霊降臨後第十二主日礼拝説教
聖書箇所:ヨハネによる福音書6章51~58節
今日の福音書の日課は、先週に引き続き「聖餐式」と深く関係のある箇所だと言われています。
ところで、皆さんは今日の箇所をお読みになられて、どんな印象を抱かれたでしょうか。「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」などの言葉を読まれて…。「人の肉を食べ、人の血を飲まなければならない」。
非常に生々しい言葉です。むしろ、少しグロテスクと言いますかオカルトチックな印象さえ持たれるかもしれません。事実、そうでした。初期キリスト教、教会が迫害を受けていたことは、皆さんもよくご存知でしょう。それには、色々な理由があります。例えば、皇帝崇拝を拒否したから、とか。しかし、その迫害の理由の一つとして、この「聖餐式」があったことは、あまり知られていないのではないでしょうか。当時の教会は、迫害の危険もあったことから、堂々と、とはなかなかいかずに、どちらかと言えば、コソコソと集まっては礼拝をしていたわけです。
それだけでも、周りの人たちからは、怪しく思われていたのかもしれません。あいつらキリスト者(クリスチャン)たちは、こそこそ集まって何をしているんだ、と。そして、どうやら、あの中で人間の肉を皆で食べ、血を飲んでいるらしい、とのデマが飛び交ったらしいのです。あるいは、時々子どもたちもその建物に入っていく。その子どもたちの血を飲んでいるのではないか、と。つまり、キリスト教・教会というのは、人肉嗜食(これを「カニバリズム」というようですが)者たちの集まりではないか、と恐れられていたからです。それが、民衆の迫害意識を助長させていった、という。
もちろん、間違いです。「聖餐(式)」についての大きな誤解です。ですから、この箇所についての注解書などをいろいろと読んでみましても、「字義通りに捉えてはいけない」とか、「文学的表現だ」とか、「象徴に過ぎない」とか、もちろん現代の私たちが前述のように誤解することなどあり得ないと思いますが、誤解しないようにと注意を促していたりする訳です。もちろん、そうだと思います。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲みなさい」とイエスさまが言われたのも、一つの表現手段、文学的表現方だと思う。
しかし、同時に、あまりにもそういった「象徴」ということに向かいすぎて、この言葉の持つインパクトを薄れさせてしまっていいのだろうか、とも思うのです。今日の箇所ではありません。次回の日課になりますが、この言葉を受けた民衆の反応はどうだったのか。好意的であった多くの人々がイエスさまの元を去っていったという。こんな酷い言葉など聞いていられるか、と。そう、誤解かもしれない。誤解をしたままで去っていってしまったのかもしれない。
では、なぜイエスさまはわざわざ誤解を生むような表現をしたのか。意地悪でそうしたのか。私には、そう思えない。むしろ、この言葉の力強さ・衝撃を、生々しさを分かって欲しい、と願っておられたのではないか。そう思うのです。ひと頃の笑い話ではないですが、当時の子どもたちは、魚はスーパーで売っている切り身の状態で泳いでいると真剣に思っていた、と言います。その真偽の程は分かりませんが、食卓に並ぶ食材の実際の姿をあまりにも知らなさすぎる、というのは事実でしょう。
家庭で魚をおろすことも少なくなった。つまり、生きるということの生々しさを知らないのです。私たちが生きるためには、他者の命を糧として得なければならないという、まさに生々しい現実です。
皆さんは、「独立学園」という学校をご存知でしょうか(正式名称は「基督教独立学園高等学校」というようですが)。山形県にあります全寮制の学校で、非常にユニークな教育をしている学校です。その一つに、自分たちで飼育した動物を屠るというのがある。例えば、鶏を飼育する。卵からかどうかは分かりませんが、丹精込めて育てる訳です。そして、大人になる。すると、頃合いを見て、その鶏の首をはねて、血抜きをする。食べるためです。私は正直、実際に見たことはありませんが、昔の農家などではよく見られた光景だと言います。私は、おそらくその肉を食べる気にならないでしょう。
可愛がって育てた鶏を、自分の手で殺して食べることなど、できそうにない。しかし、生きていくためにはそうするしかない。人が生きるとは、本来そういうものだ、ということを、この学校ではしっかりと教えようとする。あなたがたは、命によって生かされているのだということを身をもって体験することで…。最初に言いましたように、今日の日課は「聖餐式」と結び付けられて解釈されることの多いところです。
あるいは、「血を流す」ということは死を意味しますから、イエスさまの十字架の死を表している、とも言われます。私も、そうだと思っています。しかし、このイエスさまの言葉を、素直に受け取っても良いのではないか、とも思うのです。旧約聖書にはこんな記述があります。列王記下6章28節以下ですが、「彼女は言った。『この女がわたしに、「あなたの子供をください。今日その子を食べ、明日はわたしの子供を食べましょう」と言うので、わたしたちはわたしの子供を煮て食べました。しかしその翌日、わたしがこの女に「あなたの子供をください。
その子を食べましょう」と言いますと、この女は自分の子供を隠してしまったのです』」。なんともむごたらしい話しです。これはエリシャという預言者が活躍していた時代のことですが、アラムという国の軍勢がサマリアの町(北イスラエル王国の首都ですが)を包囲したのです。つまり、兵糧攻めです。ついにサマリアの町の食料がつき、鳩の糞でさえも高値で取引される程でした。極度の飢餓状態に陥ったこの母親達は、自分たちの子供を食べることで命をつなぐことにした。そう取り決めしていたのに、片方の母親は自分の子供を隠してしまったと訴え出ている。まさに狂気の沙汰です。
しかし、これが戦争というものです。今日は76回目の終戦記念日ですが、戦争に参加した多くの兵士たちがその体験を一切語らなかったのは、そんな狂気の沙汰が現場では起こっていたからだとも言われます。とても話せるようなものではなかった。ともかく、地獄です。まさに、地獄です。自分の飢えを凌ぐために我が子の肉を食べるなんて…。しかし、逆もあったのではないか、とも思うのです。この地獄の中で、我が子を生かすために、自らの肉体を与えた親達もいたのではないか、と。これは究極の選択です。
子供達を生かすためには、命を与えるためには、これしか方法がなかった。だから、子供達が生きていくために、生きて行けるように、自分の肉を食べよと告げて、自ら命を絶った親達もいたのではないか。そんなふうにも思う。そして、そんな親達の姿と、このイエスさまの姿とが重なるようにも思うのです。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲んで命を得よ。それしか、もう方法がないのだ。この地獄から救い出すには、滅びから救い出すためには、これしかない。だから、食べてくれ。飲んでくれ。わたしは、お前達を愛している。我が身など惜しくないほどに愛している。これでお前達が生きることができるならば、それが本望なのだ。だから、安心していい。お前達が生きることをわたしは何よりも願っている。だから、わたしの肉を食べ、わたしの血を飲みなさい」と。
今日のこの箇所が、「聖餐式」を意味しているのか、「十字架」を意味しているのか、あるいは、私が想像した通りなのか…、いずれにしましても、そこにあるのは愛です。私たちに対する愛です。この私たちを、何とかして救いたい、生かしたい、そのためには犠牲を厭わない、といった愛です。イエスさまの愛が、この衝撃的な言葉に溢れている。生きるとは、生々しいのです。この私たちを生かすためにも、多いの命が注がれている。その上に、私たちの命は成り立っている。ならば、「永遠の命」ということならば、尚更でしょう。何の犠牲もなくして得られるものでは決してない。しかし、その犠牲は、私たちが支払うのではないのです。そうではなくて、イエスさまが支払ってくださっている。
私たちを生かすために、自らを犠牲として捧げてくださっている。そして、わたしによって命を、永遠の命を得よ、とおっしゃっていてくださっている。そのことを、今日、改めて心に刻んでいきたいのです。願わくは、一日も早く共に「聖餐式」の恵みに与る日が来て、このイエスさまの思いを身をもって味わい知ることができるようにと願っています。