聖霊降臨後第十六主日礼拝説教
聖書箇所:マルコによる福音書8章27~38節
本日の福音書の日課は、ペトロの信仰告白の出来事でした。
ところで、皆さんはご自身が洗礼を受けられた時のことを覚えておられるでしょうか。ご存知のように、私はこのルーテル教会とは違う伝統の教会・教派で生まれ育ちました。ですので、洗礼式の様子も随分と違います。洗礼を受ける前に、まず会衆の前で証しをす
るのです。自分はこのようにしてイエス・キリストを信じるようになった、と証する。つまり、自分なりの信仰の告白です。
そして、全身水につかる洗礼(これを「浸礼」と言いますが)を受けました。正直、水の中に押し倒された衝撃的な出来事は今でもはっきりと覚えていますが、そこで何を語ったのかは全く覚えていません。二十歳です。まだ青臭さが残る、少しトゲついた時代です。これまでの人生の不条理を、不満を長々とぶつけていたのかもしれません。しかし、そんな中でイエス・キリストと出会えた、イエス・キリストを信じることができるようになった、と告げることができたのではないか、と思います。そして、そんな青二歳の告白を、会衆は自分たちの仲間の告白として受け入れてくれたのではないか、とも思うのです。
当然、同じではありません。同じである必要もありません。しかし、みなさん一人一人も、そんな信仰の告白からはじめられていることを、もう一度、思い起こして頂きたかったのです。青式文の洗礼式の項目では、このように記されています。「主と会衆の前で、あなたに尋ねます。あなたは、悪魔と、その力と、その空しい約束をことごとくしりぞけますか。全能の父なる神をあなたは信じますか。父の独り子、私たちの主イエス・キリストを、あなたは信じますか。聖霊を信じますか。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちをあなたは信じますか。あなたは、この信仰の元に、キリストのからだに連なる者となり、み言葉の教えを守り、恵みの手段を尊び、生涯を送りますか」。
もちろん、みな「はい」で応えるわけです。あるいは、皆さんの中には幼児洗礼を受けられた方もおられるでしょう。堅信式の式文にはこうある。「今、あなたに尋ねます。あなたは、洗礼において神が与えられた約束に堅く立ち、み言葉を聞き、聖餐にあずかり、神の忠実な民の中に生き、聖霊の賜物に従って、主のために身を献げて、分に応じて働き、言葉と行ないによって、キリストにおける神の救いを宣べ伝え、主イエスに従って隣人に仕え、神の国の正義と平和の確立のために努めますか」。
もちろん、「はい」と答えて、会衆とともに使徒信条によって信仰の告白をすることになります。何が言いたいか。信仰告白から始まる、と言うことです。キリスト者というものは、キリストを信じる信仰告白からはじまる。式文が異なっていても、洗礼の仕方が違っていても、ここからはじまる。しかし、ここで注意していただきたいのは、ここから「始まる」ということです。始まりであって、終わりではない。むしろ、この信仰告白から始まる、続いていく生、歩みがある、ということです。
ある方は、今日のこの箇所をマルコ福音書の分岐点だと言われます。別の方は、これまでは序文であって、ここから本当に言いたいことがはじまっていくのだ、とも言われる。私たちで置き換えるならば、これまでは求道生活と言えるのかもしれません。イエスさまと出会って、しばらく一緒に過ごしてみて、興味・関心が湧いて、様々な言動を見聞きして、この方なら信じてもいいかなっと信仰の告白に至っていく。しかし、後半の部分を見れば明らかなように、ペトロは「あなたはメシア・救い主です」と立派な信仰告白をした
にも関わらず、何も分かっていなかったことが暴露されてしまうのです。「引き下がれ、サタン」などと言われてしまうようなペトロの無理解な、誤解だらけの信仰告白など、一体何だったのか、とさえ思ってしまう。
しかし、こうも考えられるのではないか。確かに、イエスさまからすればペトロの信仰告白は誤解にまみれた非常に不十分なものだったかもしれないが、この信仰告白があったからこそ、ご自分の受難…、十字架と復活を打ち明けられたのではないか、と。つまり、このペトロの「あなたはメシア・救い主です」との告白があったからこそ、次の段階へと進むことができたのではないか。そう思うのです。なぜなら、このように記されているからです。
「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」。ここのところは、よく「受難予告」と言われます。しかし、お読みいただければ分かるように、単なる「予告」ではないのです。弟子たちを「教える」ためだったのです。これまでにも、イエスさまは様々なことを教えてこられたでしょう。そんな教えを受けたからこそ、弟子たちは信仰の告白ができたはずです。
しかし、これまでは受難・十字架と復活のことは教えてこられなかった。少なくとも、「はっきり」とした形では、示してこられなかった。だから、この時の弟子たちの反応も当然と言えば当然かもしれません。今日、初めて、そのようなことを聞いたのですから。今まで一度も聞いてこなかったのですから。しかも、それは、全く信じがたい理解を超えた内容だった。神さまが送ってくださった救い主が、人々から排斥されて殺されるなんて、全く有り得ないことだと思った。
いいえ、決してあってはならないことだと思ったでしょう。だから、「いやいや、先生。そんな弱きなことを言われては困りますよ。あなたは私たちが信じる神さまから遣わされた救い主なんだから、どんと構えていてください」、そう言いたくなる気持ちも分かります。しかし、それでは、全然足りないのです。そのような理解だけでは困るのです。だから、イエスさまは、ここからもう一歩先に進んだ事柄を、彼らが信じ受け止めるべき最も大切な事柄を、この時から、あの信仰の告白の時から、残された時間の限りを尽くして教えていこうとされたのです。
信仰の告白自体が恵みなのです。並行箇所のマタイ福音書では、このようにも記されているからです。「シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた。すると、イエスはお答えになった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ』」。ここにありますように、信仰告白自体が神さまからの賜物なのです。恵みでしかない。しかし、これは始まりなのです。十分だとは言い難いのです。
私たちも振り返ってみると、洗礼を受けるときに十字架と復活のことは、確かに情報としては頭にあったかもしれませんが、良く分かってはいなかったのではないでしょうか。だから、教えていただくしかない。教えられ続けていくしかない。イエスさまに。なぜなら、私たちもまたペトロだからです。十字架と復活の救い主など、私たちの中からは決して生まれてこないからです。
むしろ、拒絶したくなる。そんなはずはない、と言いたくなる。私たちが信じ、期待している救い主とは、このような方です、と言いたくなる。ペトロの時代のような、外国の勢力から救ってくれる政治的救い主を私たちは求めてはいないかもしれませんが、しかし、いつも優しく、傍にいて寄り添ってくださるイエスさまであってほしいと思っているのかもしれません。十字架と復活など持ち込まないで欲しい、と思っているのかもしれない。
繰り返しますが、それが間違っている、というのではないのです。私たちが信じ、期待しているメシア、イエスさまの姿が間違っている、と言いたいのではない。そうではなくて、それだけでは不十分だ、ということです。その上で、教えられなければならないことがある、ということです。なぜなら、神さまは私たちへの愛を、イエスさまの十字架と復活によって貫かれることに決められたからです。ここを見失うと、神さまの愛自体が霞んで行ってしまうからです。だから、ここは譲れないのです。イエスさまも譲れなかったのです。
私たちは、神さまの恵みによって信仰告白へと導かれました。「あなたこそメシア・救い主です」と言えるようになったのです。それは、本当に感謝なことです。しかし、私たちは、ここから始まります。始めるのです。そのために、イエスさまご自身が、私たちの背中を押し出し、あるいは引っ張り込み、時には叱責されることもあるかもしれませんが、それも神さまの愛を受け止めて欲しいからであって、私たちを決して見放すことなく、教え諭していってくださるのです。あのペトロや弟子たちのように。
そのことをもう一度覚えて直して、ここからはじめていきたい。そう願っています。