説教「飼い主のない羊へのケア」大柴譲治

マタイによる福音書9:35-10:15

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。

主の「深い憐れみ」

本 日の福音書の日課には主イエスが精力的に活動する様子が述べられています。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあ らゆる病気や患いをいやされた《(35節)。それはどのような思いからなされたのか。36節には「深い憐れみからなされた《と記されています。「また、群 衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた《。この主の「深い憐れみ《が本日のキーワードです。

先 週も少し触れましたが、この「深い憐れみ《という言葉はギリシャ語で「スプラングニゾマイ《という語ですが、日本語の「同情《とか「憐憫《とかいった静的 なものではなく、もっとダイナミックな動きを伴うものです。それは「内蔵(はらわた)を表す語から来ていて、はらわたのよじれるほどの強い痛みを伴うもの なのです。日本語には「断腸の思い《という表現がありますがそれと同じです。

「飼う者のいない羊のような群衆の困窮《「弱り果て、打ちひし がれている《痛み苦しみを、主イエスはご自身の存在の中心(はらわた)で、それがよじれるほどの鋭い痛みをもって受け止められたということです。羊には自 分を守り、緑の牧場、憩いの水際に導く羊飼いが必要です。そのような「弱り果て、うちひしがれている人々《を真の牧者である主は、その深い憐れみのゆえに 放ってはおけなかったのです。

「胃がビクビク動くんだよね」

私はこの「スプラングニゾマイ《という言葉に関して忘れ ることができないエピソードがあります。それは1985年の9月、私が神学生の最終学年で築地の聖路加記念国際病院で3週間の臨床牧会教育 (Clinical Pastoral Education、以下はCPEと略)を受けていたときのことです。

それは病床訪問をして会話記 録を起こし、ピア(仲間)メンバーグループで検討するという とてもハードな実習でした。病院というところは病気で苦しむ人たちが入院している場所です。特に聖路加病院は癌や小児白血病の治療のために全国から難病患 者が集まってくる病院でしたから、神学生にとっては突然何も持たずに現実の修羅場に投げ込まれるような緊張感を伴う実習でした。何をすればよいのか、どこ から手をつけてよいのか、自分の無力さを強く感じながらも、オロオロ右往左往したり、緊急事態に走り回る看護婦さんやお医者さんたちの間で呆然と立ち尽く していたこと等を今でも鮮やかに思い起こします。しかし上思議なものですね。そのような私がその最初のCPEで自分自身に大きな課題を与えられて、それに こだわり続けたからこそ今の自分がいるわけですから。

困難であったのは病床訪問だけではありません。患者さんとの会話記録を書いたものをグ ループの中で検討してゆくときに、そこに私自身の姿が映し出されてゆくのです。なぜ相手の気持ちをキチンと受け止められないのか、なぜそこから逃げようと しているのか、なぜ相手をコントロールしようとしたり、相手に自分を押し付けようとするのか、等々、会話記録をチェックしてゆくとその背後にある自分自身 の思いが鏡に映し出されるように明らかにされてゆきます。それは驚きの体験であり、打ち砕かれるような体験でもありました。私はそれまでにいのちの電話の 傾聴訓練を一年三ヶ月受けていましたし、既にカナダ・ラングレイでの一年間のインターンと熊本・神水教会での七ヶ月のインターンも終了していましたので、 ある程度自分は他者とのコミュニケーションができていると思っていたのです。それゆえに尚更、それが十分にできていない自分の姿を示されたことはショック でもありました。

その時のCPEスーパーヴァイザーは、聖公会の司祭であり、聖路加国際病院のチャプレンでもあった井原泰男先生でした。私 自身はその時、スーパーヴァイザーに対して複雑でアンビバレントな思いを持ちましたが、結局その最初のCPEで示された自己の課題と格闘し続けてきたよう に思います。その意味で聖路加病院での体験は忘れることができないものでした。

私にとって最も印象的だったことの一つは、井原先生が雑談の 中で言われた言葉でした。「僕はね、患者さんと話していて大切なところに来ると、なぜか胃がビクビク動くんだよね。《「本当かなあ《と思うと同時に実際に そのような聴き方があるのかと驚かされました。その時初めて「そうか、はらわたがよじれるような聴き方とはこのようなことを言うのか《何かストンと腑に落 ちたような気がしたのです。頭ではなくはらわたで聴くということ。本日の福音書の中のイエスさまが「飼い主のいない羊のような群衆を見て深くあわれまれた 《という表現がそこでストンと紊得できたのでした。井原先生の「胃がビクビク動く《という表現はそれと同じと思いました。イエスさまはさぞかし胃が痛んだ のではないかと思います。

人が実際に他者に対してそのように深く共感的な聴き方、関わり方が可能なのだ ということは私にとっては一つの天啓でもありました。そして「そのようになりたいけれど本当にそうなることができるのか《という思いを持って今まで25年 歩んできたのでした。最近になってようやく「はらわたで聴く《ということが少しずつ分かってきたような思いがしています。胃がビクビクと動くというところ まではまだないのですが、はらわたにズンと響くような思いで他者の声に耳を傾けることが、時折ですが、あるように思います。

そのような「深 い憐れみ《をもって主イエス・キリストは「弱り果て、打ちひしがれている者たち《の思いを受け止めてくださるのです。あのステンドグラスに描かれているよ うに、私たちはそのように深い憐れみと愛をもって私たちと関わってくださる羊飼いと出会うことができたのです。

12弟子の選出と派遣

飼 う者のない羊のような群衆を見て深く憐れまれたイエスさまが次になにをされたかというと、12弟子の選出と派遣でした。「収穫は多いが、働き手が少ない。 だ から、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい《(37-38節)と弟子たちに言われた後に、主は「十二人の弟子を呼び寄せ、汚 れた霊に対する権能をお授けになった《とあります。それは「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすため《でありました(10:1)。私たちがキ リスト者として召し出されているのは、主の憐れみの御業に参与するためなのです。私たちも胃がビクビクするような深い憐れみをもってこの世に関わるよう召 し出されているのです。本日の旧約 聖書の日課・出エジプト記19章には、神がイスラエルを「宝《「祭司の王国《「聖なる国民《とすると言われていますが、深い憐れみを通してアブラハムが諸 国民のための「祝福の基/源《として選ばれたことも、このような憐れみの御業をこの世において示すためでした。

私たちが果たして「汚れた霊 に対する権能《を授けられていて「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやす《ことができるだろうかと思うと、どうもそこまではできないとようにも 思いますが、それは人の思いでありましょう。主が深い憐れみから癒しの御業や奇跡を行われたことを 覚えるとき、私たちも具体的な生活の中でそのような主の上思議な御業に参与することになるのだと思います。そもそもこの有限な生命を生きている私たちが、 キリストを信じる信仰を与えられて、永遠の生命に与ることができていること自身が奇跡なのだと思います。キリストが私たちを汚れた霊を追い出し、あらゆる 病気や患いを癒すために立てているのだとすれば、そのように私たちは用いられてゆくのだろうと思います。現実には悲しみばかりなのですが・・・。

昨 日東京池袋教会で開かれた宣教フォーラムで当教会員のN・Tさんがパネラーのお一人として発題をしてくださいました。主題は「主よ、憐れんでください《と いうもので、神学校の江藤直純先生が主題講演者でした。Nさんはご主人が病気になられてからの五年間のことをお話し下さいました。ご主人のN・Aさんは、 ある日突然に大動脈瘤乖離という難病で倒れたのです。奥さまを中心とするご家族の献身的な看護を得る中、筆舌に尽くしがたい困難な時を経て、奥さまの祈り に答えるようなかたちでご主人は洗礼に導かれ、何度も山場を乗り越えて、五年間、家族との深い交わりの中に置かれました。そして下のお嬢様が結婚、そこに 与えられた孫娘の顏を見て、またご自身の100歳のお母様が亡くなられたことを知って三日後に、実に安らかな笑顔の中でこの地上でのご生涯を終えて天へと 召されてゆかれたのです。そこには確かに生きて働いておられるキリストの祈りがあったと仲吉さんはお話しくださいました。

飼い主のない羊 のような群衆を見て深く憐れまれたイエスさまは、あのステンドグラスに描かれているように羊飼いとしての深い憐れみと愛とをもってそのような羊に関わって 下さるお方なのです。遠くにある羊とは思わず、自分の近くにいる、自分と深い関わりを持つ羊であると見なして下さるのです。マザーテレサは言いました。 「愛の反対は憎しみではない。無関心だ《と。無関心、無関係、無感動こそが愛の対極にあるのです。主が病いや貧しさや愛する者との別離の中に置かれている 苦しみ痛む者たちに深い憐れみを持って下さるということは、その隣人となってくださると言うことです。主こそが深い憐れみによって強盗に襲われて倒れてい た旅人に近つ?いて真の隣人となった「よきサマリア人《なのです。

振り返ってみれば、私は牧師として25年間、家族の絆、愛の関わりの中 で、少なからぬ奇跡を見ることが許されたように思います。無数の人間が存在するこの地上で、私たちの出会いは、特に家族としての出会いは奇跡であると感じ ます。無関心というものが蔓延しているこの世の只中で、私たちが主の深い憐れみの中で互いに「神の宝の民《として出会うことが許されているということ、互 いにはらわたが痛むほどの深い共鳴関係の中に出会わされているということは、これは実に上思議な「神の恩寵の事実《であると言わなければならないと思いま す。そこには確かに復活の主が生きておられ、「飼うもののいない羊のように、弱り果て、うちひしがれ《ている者たちに深い憐れみを持って働きかけてくだ さっているのです。

聖餐への招き

本日は聖餐式に与ります。「これはあなたのために与えるわたしの身体《「これはあな たの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約《。こう言って私たちにパンとブドウ酒を差し出してくださる主イエス・キリスト。これこそ私たちを 招くわたしたちの羊飼いである主の胃がビクビク動くような深い憐れみの御業です。この憐れみの御業、復活の主の牧会の御業に参与するよう私たちは召し出さ れています。私たちも主の手足としてこの世に派遣されているのです。主は私たちを通してその憐れみの御業を行い続けておられます。そのことを覚え、そのこ とを深く味わいながら、ご一緒に新しい一週間を踏み出してまいりましょう。お一人おひとりの上に主のみ力が豊かに注がれますように。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2011年7月3日 聖霊降臨後第三主日聖餐礼拝説教)