マルコによる福音書 1:12-13
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。福音書記者マルコの意図
教会暦では、先週の聖灰水曜日より四旬節/レントに入りました。典礼色は悔い改めを現す紫色。紫は王の色でもあります。私たちのために十字架への歩みを始 められた王、主イエス・キリストを覚えて40日間を過ごす期節です(日曜日を除く)。四旬節の第一主日に与えられた福音書の日課は、荒野の誘惑の出来事を 記しています。その「40日」は四旬節の40日にも通じています。私たちはこのレントの期節を自らを吟味し、罪を告白しつつ、主の十字架に思いを向けて過 ごしてゆくのです。なぜ主イエスが十字架にかかられたのかに思いを馳せながら。本日の日課には、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受け た後、主イエスは「神の霊」によって荒野へと押し出され、そこで40日間、サタンより誘惑/試練を受けられたことが記されています。マタイ福音書とルカ福 音書が誘惑の内容に詳しく立ち入っていることと対照的に、マルコ福音書はその誘惑/試練の内容には全く触れていません。マルコはただ淡々と、短いけれども 決然とした筆致で、イエスのヨルダン川での受洗、荒れ野での試練、ガリラヤでの宣教開始について記している。そこには事柄だけが「一息」で語られていると いう印象を持ちます。福音書記者マルコにとってはそれらの出来事はワンセットなのです。よって、本日の誘惑/試練の出来事はその前後の脈絡(受洗と宣教開 始と)から切り離されてはならないでしょう。
12節の「それから」という接頭辞は「すぐさま」とも訳せる言葉ですが、誘惑/試練がイエス の受洗と密接な関わりを持っているということを告げています。受洗時に霊が鳩のようにイエスに降ってきた。その霊がイエスをすぐさま荒野へと追いやってゆ くのです。「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という天からの促しが主イエスを荒野へと押し出してゆく。マルコ福音書は誘惑/試練の内容に ついては沈黙していますが、それはおそらくイエスの父への信頼を突き崩そうとする誘惑/試練であったと思われます。
私たちも洗礼を受けた ときに神さまからの霊をいただきました。「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という神さまからの根源的な存在の肯定を、「然り」をいただい ているのです。その神さまからの「然り」という促しを得て私たちもまた、イエスさま同様、私たち自身も人生においては、神の霊によって荒野へと押し出さ れ、悪の力(サタン)から苦しく辛い誘惑/試練を受けるということが確かにあると思います。本日は私たち自身にとって荒野の誘惑/試練が何を意味している のかということを問いたいと思います。
現代の荒野としての現代人の孤独
12節には「それから、“霊”はイエスを荒 れ野に送り出した」とある。受洗時に天から鳩のように降ってきた神の聖霊がこの文章の主語になっているように、聖霊こそがこの場面における主人公であり主 体です。それは使徒言行録(使徒行伝)において聖霊が主役であるのと同じです。聖霊がイエスを荒れ野に「送り出し」た。ここで「送り出 す」と訳されている言葉は「押し出した」とか「追いやった」という強い意味を持つ言葉です。口語訳では「それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやっ た」となっていた。霊が強くイエスを荒れ野へと押し出してゆく。我々の人生にも自分が決断するのではなく、知らないうちに後ろからから押し出されるように 困難に踏み入ってゆく時がある。そしてそこで重荷を担わされることがあります。私は時折、その背後には聖霊の押し出しがあるのかもしれないと思わされるこ とがあります。
実は聖書の「荒野」というギリシャ語には、それ以外に「孤独な、人里離れた、寂しい」という意味もあります。従って、「荒 野における試練」とは「孤独における試練」と訳することもできないことはない。現代の荒野は現代人の孤独はだと思います。そのような孤独の中で、私たちは 悪(サタン)の誘惑/試練を受けるのです。それは神を信じることのできない者として、愛を信じることができない者として、虚無と絶望と滅びへと落ちてゆく ように私たちをいざなう誘惑です。
インドのカルカッタで貧しい者の中で最も貧しい者のためにその生涯をささげたマザーテレサの言葉に次の ような言葉があります。「人間にとって最大の悲惨は、あなたは誰からももはや必要とされていないと感じることです。それこそが、人間にとってもっともむご い、さびしい、つらいことです。『あなたはもう必要ではない』 そのとき人は倒れます」と。
誰からも必要とされていないと感じること、そ のことの辛さを私たちは体験的に知っています。私たちは何か人の役に立ちたいという願望を心の深いところに持っています。なぜでしょうか。誰からも必要と されていないと感じたくないからです。こんな自分でも誰かが自分を必要としてくれている。そう思いたいのです。しかし何かができるから、何か人の役に立て るから誰かが自分を必要としてくれているというDoingの次元、行為の次元における考え方は、何もできなくなったときには役に立ちません。病気になった ときや次第に老いて体が動かなくなってきたときには人の役に立たない、誰からも必要とされていないということになり、とても辛くなってしまうのではないで しょうか。
しかしそうではない。私たちが何ができようができまいが関係なしに、私たち自身の存在そのもの、Beingそのものの次元こそ が大切なのです。マザーテレサはインドのカルカッタで。道端で倒れて死にかかっている人たちの中に最も小さい者の中におられる主イエス・キリストを見、そ れらの人々をリヤカーに乗せて死を待つ人のホームに連れてきて最後を看取ったのです。マザーは最初にそのホームに来た人に二つの質問をしました。最も基本 的な質問です。マザーは最初にその人の名前とその人の信仰を問うたのです。それまで一度も名前で呼ばれたことのないような人々をその人固有の名前で呼び、 亡くなった時にはその人の信仰に沿って葬儀を行ったそうです。ヒンズー教ならヒンズー教の、仏教なら仏教の葬儀を行ったそうです。名前と信仰という二つは 人間にとって最も大切なもの、中心的なものの二つです。誰からも必要とされていないと感じて道端に打ち捨てられた人々を、マザーはその愛の中で看取ってゆ くのです。自分にはできないことなのでそれはとてもまぶしく感じます。
そのようにマザーテレサは一人ひとりの命そのもの、存在そのものこ そ大切なものとして豊かに愛を注いだのです。キリストがそうしてくださったように、最も小さきものの一人の中にいるキリストに仕えたのです。マザーたちの 温かいまなざしとほほ笑みの中で感謝しながらこの世の生を終えることができた者はどれほど深い慰めと安堵とを得たことであったことでしょうか。死の床で私 たちを支えるものは愛であり、愛だけが私たちの孤独を癒してくれるのです。私たちは創造の最初から「神の愛のかたち」に、相互に愛を分かち合い、愛を与え 合うような人格的応答関係の中に造られています。
「人間にとって最大の悲惨は、あなたは誰からももはや必要とされていないと感じることで す。それこそが、人間にとってもっともむごい、さびしい、つらいことです。『あなたはもう必要ではない』 そのとき人は倒れます。」このマザーテレサの言 葉には実践に裏打ちされた強い説得力があります。私たちはそのことをよくわかる。「自分は誰にも必要ではないのではないか」という深い孤独な苦しみは、私 たち自身の心を深く刺し貫きます。それは私たち自身も自分の人生の途上でそのような思いに恐れおののいた経験をどこかで持っているからではないかと私は思 います。しかしそのような現代の愛の乏しい荒野へと聖霊が主イエスを追いやったように、キリストを主と信じる私たちをも愛を生きるようにと追いやってゆく のです。
荒野に虹をかけるために
本日の旧約と使徒書の日課が共に神とノアとの間の契約について告げているというこ とに戸惑いを覚える方もおられるでしょう。いつもは旧約の日課と福音書の日課は深い内的なつながりを持っているのですが、本日の個所においてはなぜ荒野の 誘惑/試練とノアの契約の虹とがつながるのかすぐには理解できません。神はノアに言います。「わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これは わたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。」(創世記9:13)と。「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて 肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める」(16節)というのです。本日の福音書の日課に「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受 けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」とありますが、おそらくこの「野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」という 言葉には、神との全被造物との間のノア契約が思い起こされているのでしょう。すなわちそれは荒野に虹が架かっている状態です。マザーテレサが愛の乏しいカ ルカッタという現代の荒野に愛をもたらして虹のように輝いて生きたように、イエスは荒野の虹として生きたのです。そしてまたそのようなお方につながってい る私たちもまた、小さないのちそのものを大切にし、希望の乏しい場所、愛の渇く場所に神の契約のしるしである虹を架けるような働きを求められているのかも しれないと思います。
孤独における試練
私たち現代人の孤独な病いは真実の「愛」というものを信じることができなく なったところにあるのではないかと思われます。家庭や学校や職場や社会において人間関係が崩れているのです。バベルの塔が崩された後、人間が大地に散らさ れて言葉が通じなくなった時のように、互いに心が通じ合わなくなっているという現実がある。人間は昔も今も孤独の中で孤立して苦しんでいるのではないかと 思われます。あまりに愛のない出来事が多い。否、愛を否定する酷いテロや戦争や凶悪な犯罪が毎日のように起こり、人々の命がまるで虫けらのようにいとも簡 単に殺されてゆく。どこに愛があるのか。神はどこにいて何をしているのか。どこにも神の愛がないではないかと私たちは絶望的な気持ちになります。しかし、実は愛が信じられなくなるということは現代人の特徴に限られるわけではありません。聖書の中ではアダムとエバの最初から愛を信じることができなく なった孤独な人間の悲惨が描かれています。アダムとエバから生まれた最初の子供カインは弟殺しの殺人者となってゆきます。愛どころではない。怒りと不信、 そして偽りが人間を支配しているのです。人間が神の愛を裏切り、愛を捨てて出口のない絶望の闇に生きるということは、聖書を貫くモチーフです。
今、婦人会いとすぎではヨブ記を読み始めていますが、実はヨブの苦しみも苦難の中で神の愛を信じることができなくなったところにあるというふうにも言えま しょう。苦難とは私たちを神の愛から引き離そうとするサタンの誘惑であるとも言えるのかもしれません。神の愛が信じられなくなること。それがサタンの目的 です。しかし同時に苦難の中で私たちは救いを求め、この教会に導かれてきたという側面もあります。苦難は滅びへの誘惑であると同時に救いへと通じる試練で もあるのです。苦難とは、ちょうどコインに裏と表があるように、サタンの側から見れば誘惑ですが、神の側から見れば試練ということになりましょうか。主イ エスは受洗後すぐに「霊」に導かれてそのような誘惑/試練の中へと押し出されてゆきました。私たちもまた誘惑/試練の中に追いやられてゆきます。孤独の中 で愛が信じられなくなることこそ、私たちにとっては荒野の誘惑/試練ではないかと思うのです。
私たちは人の愛が信じられなくて神の愛が信 じられるのだろうかと私は最近思うことがあります。確かに人間の有限の愛と神の無限の愛とは比較することができません。人間の愛には私たちは裏切られるこ とがありますし、私たち自身のうちに何があるかということを知る者は、自分の愛のなさに気づかされ、自分の愛を信じることができないために、人の愛を信じ られなくなるようにも思います。しかし、そのような中でマザーテレサの行為は確かに虹色に輝いている。愛は抽象概念ではありません。具体的なものです。神 の愛は具体的な人間を通して与えられるのではないでしょうか。人の愛の中に神の愛が働くと言ってもよい。
私は先日、テレビで映画『スー パーマン』を演じたクリストファー・リーブが、落馬事故のために頚椎を損傷し、首より下が完全にマヒしてしまうという中で、必死にリハビリに打ち込んでい るドキュメンタリーを観て感銘を受けました。頚椎損傷後5年も過ぎてから指先や足が動かせるようになった人は、彼の他にいないということでした。人は彼の ことをこう言うそうです。「彼は昔スーパーマンを演じたが、今はスーパーマンになった」と。また、最近はやはり映画俳優のマイケル・J・フォックスが、 『バックトウザフューチャー』で有名ですが、彼が若くしてかかったパーキンソン病との戦いの中で書いた自伝『ラッキーマン』を読み始めています。3/4の 朝日新聞に一面に広告が載っていたのに目が止まったからです。そこにはラインホルト・ニーバーの祈りとして有名な次のような祈りが掲載されていました。 「神様、自分では変えられないことを受け入れる平静さと、時文に変えられることは変える勇気と、そしてそのちがいがわかるだけの知恵をお与えください。」 『ラッキーマン』という本の題名は、マイケル・J・フォックス自身がこのような病いを与えられた自分を何とラッキーな男であるかと考えているところから取 られています。
困難な誘惑/試練の中にあっても、再び勇気を抱いてこのように見回せば本当に多くの隠れた虹が輝いていることにも気づかさ れます。孤独な荒野にも神の契約のしるし、愛のしるしが与えられている。十字架への孤独な苦難の歩みを始められた主イエス・キリストにこそ、私たちのため の神からの虹が輝いていることを覚えつつ新しい一週間を過ごしてまいりましょう。お一人おひとりの上に神さまの守りが豊かにありますように。 アーメン。
おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(2003年3月9日 四旬節第1主日礼拝説教)