四旬節第三主日礼拝説教
教会の桜のつぼみも随分と膨らんで参りました。散歩に出かけますと、白い大きな白木蓮(ハクモクレン)の花が目を楽しませ、沈丁花(ジンチョウゲ)の芳しい香りが気持ちをワクワクさせてくれます。毎年、このような季節になりますと、自然の不思議さ、力強さを感じさせられ、色とりどりの景色になるのを心待ちにさせられます。
今日の説教題は、「悔い改めを待っている」としました。今日の福音書の日課は、明らかに「悔い改め」がテーマとなっているからです。
私たちは連日、ウクライナで起こっている出来事に釘付けになり、心を痛めてきまし た。と思いきや、先日の地震です。ここ東京でもかなり揺れました。物が倒れないかと心配した。その揺れが結構続きましたので、2011年のことが連想されました。すぐさまネットで情報を見ますと、やはり東北で震度6強の揺れがあり、津波注意報も出されていることが分かりました。嫌な予感がしました。残念ながらお亡くなりになられた方や怪我をされた方もいらっしゃいましたが、大惨事にならずに済んで、ほっといたしました。 当たり前といえば当たり前かもしれませんが、イエスさまの時代にもそんな不幸な出来 事があったのです。
今日の日課がそうです。「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた」と聖書は記しています。ピラトというのは、イエスさまを十字架につけた、あの総督ピラトのことです。しかし、実はこの事件の概要がよく分からないのです。ローマの資料にも、ヨセフス(『ユダヤ戦記』を書いたユダヤ人の有名な歴史家ですが)の歴史書にも記されていないからです。つまり、他に当たる資料がまるでない、ということです。ですから、この聖書の言葉から推察するしかないのですが、それがまた難しい。なぜなら、「いけにえ」は神殿でしか捧げられませんから、異教徒であるピラトが神殿に押し入って「ガリラヤ人の血をいけにえに混ぜる」なんてことは普通ならば考えられないことだからです。もし、こんな暴挙に出たのなら、他の何らかの資料に も、例えば先ほど言いましたヨセフスの文章にも出てくるはずだからです。ですから、よく分からない。しかし、何らかの流血沙汰が起こったことは事実なのでしょう。ローマ総督ピラトの手によって。それが、不幸な出来事の一つ。
もう一つは、「シロアムの塔が倒れ」たことです。それによって、18名の犠牲者が出たという。これも、当時の人々はよく知っていた出来事・事故だったようですが、今ではよく分からない。シロアムという池の側に水道かあるいは城壁が造られていて、その建築用の櫓が倒れたと推測している人もいます。ともかく、多くの人はこれを「天災・自然災害」と分類している。
つまり、先ほどのものは、明らかに人の手によってなされた不幸ということですが、ここで二種類の不幸…、いいえ、そもそも不幸というものは人の手によるのか、それとも自然が起こすものかでしかないようにも思いますので、人を不幸たらしめる原因全てが記されていると言っても良いのかもしれません。当然、どうしてそんな不幸な目に遭うのか、という理由を知りたくなるのも人情というものでしょう。そこで、イエスさまはこう答えられました。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか」。
当時、そう考える人たちが多かったのでしょう。いいえ、現代だって決して少なくないのかもしれません。不幸の原因はその人自身にあるのだ、と。私も、そうでした。長男が死の病にかかってしまったのは私の罪のせいではないか、と思っていた。しかし、イエスさまは続けてこう語られた。「決してそうではない」と。これは、救われる言葉です。そして、あのヨハネ福音書にあるように、こう言ってくださるに違いない、と私たちは期待する。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。しかし、今朝の日課は、そんな私たちの期待を裏切るものです。
「決してそうではない。 言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。そう言われる。これは、なかなかにしんどい言葉です。しかし、ここで注意して頂きたいのですが、ここで言われているのは、自分の不幸をどう受け止めるか、ということではない、ということです。そうではなくて、他人の不幸をどう受け止めるべきか、ということです。当然、先の地震だって、被害にあったのはあなたがた自身のせいだ、自業自得だ、などということは、私たちは決して思わない。むしろ、なんで東北の人ばっかり、と心を痛める。イエスさまだって、あんな不幸な目に遭ったのは、あの人たち自身の罪のせいだ、といった問いかけに対して、はっきりと「違う、決してそうではない」とおっしゃっておられる。その人の罪、過ちが災いを招いた、といったある種の因果応報的な考え方に対して、はっきりと「ノー」と言っておられる。
つまり、そういったことを追求しておられるのではないのです。そうではなくて、それらの不幸な出来事を、あなた方は他人事としていないか、と問われるのです。むしろ、我が身を顧みる機会とすべきではないか、と問われる。確か に、そうです。どれほど同情を寄せ、心配りしているつもりでも、それ自体は悪いことではないと思いますが、それでも「自分はそんな目には合わない」とどこかで思っている自分がいる。他人事、自分とは関係のないこととしている自分がいる。そうではないだろ う、あなた方の身にだっていつでも起こりうることだ、そうなってからでは遅いのだ、とイエスさまは問われるのです。
プーチン大統領は、今回の戦闘行為を安全保障のためだ、自国を守るためだ、と言っています。恐らく私たちの多くは、あのウクライナの惨状を見て、そんな言葉は全く納得できない、と思っているのではないでしょうか。ウクライナの人々の命を奪う理由にはならない、と。では、私たちの国を、日本を守るために、安全保障のために、北朝鮮を、中国を、どこかの国を攻撃することは許されるのでしょうか。自衛のためならば、人を殺すことは、問題にならないのでしょうか。どんな場合でも、人殺しは罪であるはずです。「汝殺すなかれ」。
以前もお話ししたことがあると思いますが、私は30代の前半に、はじめて沖縄を訪れる機会が与えられました。本当は会議に出席しなければいけませんでしたが、同世代の牧師仲間と抜け出して、レンタカーを借りて、戦争の史跡巡りをしたのです。もちろん、私は昭和42年生まれ、戦争を知らない世代です。しかし、今よりもずっと触れる機会が あったように思います。偏ったあり方ではあったかもしれませんが。とにかく、当時の軍国主義が諸悪の根源とばかりに叩き込まれていた。そのせいでもあるのか、戦後民主主義に生きる私とは関係のないことだ、と正直思っていました。少なくとも、自分はそんな間違った考えにはならないと。しかし、史跡巡りをしていく中で、その時代に生きた人々に触れていく中で、本当にそうだろうか、と思うようになりました。もし、自分がその時代に生きていたら、今のような考え方になっていただろうか。そして、自分の中にもはっきりと戦争の血が流れていることに気付かされ、愕然としたことを覚えています。
何が言いたいのか。他人事ではない、ということです。誰の罪のせいなんて呑気なことを言っている場合じゃない。私たち皆が悔い改めに招かれている。悔い改めるべき存在である。そのことに気付け、とイエスさまは語られる。
6節からは、ある意味悔い改めを待っておられる神さまの様子が譬え話として語られています。何の説明もいらないくらいに、よくお分かりでしょう。悔い改めの実を実らせようとしない私たちのために、イエスさまが猶予を願い出てくださっている。それは、分かる。ありがたいとも思う。しかし、もしこの一年も実を結ばなかったら、どうしよう、といった思いを持たれるのかもしれません。そもそも、どうしたら実を結べるのだろうか、とも…。
最初に季節の話をしました。本当に不思議です。なぜ季節になると芽吹くのか。花を咲かせるのか。木々たちが頑張って咲かせるのではないと思うのです。そうではなく、自然に、です。そう創られているからです。むしろ、そうでない方が不自然なこと、異常なことです。むしろ、何かがそんな自然の営みを無理矢理に止めている、ということでしょ う。このいちじくの木もそうなのではないか。
ご存知のように、ヨハネ福音書には「ぶどうの枝」の譬えが記されています。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」。イエスさまにつながってさえいれ ば、実は自然と結ぶという。あるいは、ロマ書です。ここではユダヤ人をオリーブの木に譬えられ、異邦人である私たちが、その木に接木されていると語りながら、こう記されています。「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです」。
つまり、神さまのご愛を信じて、恵みの中に留まり続けることの大切さを言っているのでしょう。今日のところでも、実を結ばせることに必死なのは、園丁であるイエスさまなのです。 私たちの努力の結果ではない。では、何が必要なことか。神さまが開いてくださる命の道を閉ざさないことです。なぜ神さまは私たちに悔い改めを要求されるのか。断罪のためではありません。私たちを救うため、自然に実を結ぶように命に生かすためです。そのために、イエスさまは必死になってくださっている。必死に食い下がり、猶予を勝ち取ってくださっている。そのことに気づくためにも、無関心であったり、他人事であったりしてはいけないのです。私たちはすぐにでも神さまから離れてしまう弱さを持っているからです。だからこそ、この悔い改めの招きにも素直に答えていきたいと思うのです。