「読書会ノート」 遠藤周作『深い河』新潮社

 遠藤周作 『深い河』

廣幸朝子

 

深い河、神よ、私は河を渡って、集いの地に行きたい。

(黒人霊歌)

 

幼いとき着せられたキリスト教という上着の着心地の悪さに悩みながらも、とうとう脱ぎ捨てることはできなかった遠藤が、死の間際にたどり着いたところは、しかし、壮麗なバチカン宮殿ではなく、ヒンズー教徒の聖地、ガンジス河のベナレスであった。神の加護を求めて人々が沐浴をし、結婚式を挙げ、傍らでは死体を焼き、死者の遺灰を流すところである。人間の喜び、悲しみ、希望、絶望、矛盾、混沌、すべてを受入れ包み込んで、河は悠久の時を流れている。そこに、西欧の教会には受け入れられず、なかば島流しにされた日本人神父大津がいた。彼は、聖地で死のうとして行き倒れた人の遺体を黙々と火葬場に運んでいる。イエスがここに居られたら、きっと同じ事をしただろうと言って。そして彼は、だれにも賞賛されることなく、惨めで無惨な死を迎えるのである。ちょうどイエスのように。しかし、大津の死は、彼の不器用な生き方をみつめていた美津子に衝撃を与え、やがて彼女の魂のなかに大津が鮮やかに生き返るのである。

遠藤氏は、終生、日本人の心に合うキリスト教を模索した。日本人のキリスト教徒の数は相変わらず1%に満たないそうだが、キリスト教への評価は決して低くはない。子供をミッションスクールに入れたがる親は多いし、キリスト教を標榜する病院もそう、里親を探すときもクリスチャンホームは一番希望されるらしい。日本人はキリスト教を信頼し、好意をもっているのである。しかし自分は信者にならない。横並び意識が強く、和を尊ぶという美名のもと個人を尊重せず、改革を恐れ、現状維持に甘んじる日本の民族性には、「神の姿に似せて造られたのだから、神の高みに向かって生きよ」という上昇志向のキリスト教は確かに合わないだろう。

しかしだからと言って私達はひるんだり、遠慮することはない。むしろクリスチャンとして誠実に生きて見せるべきであろう。その生き方に感銘した人はきっと教会の扉を叩く筈だ。牧師が百万言をついやして神を語るよりもはるかに大事なことではあるまいか。世のひとは、クリスチャンである私達の言動を通して、教会を推り、キリスト教を推るのである。クリスチャンが増えないとしたら、私達の生き方が問われているのである。

(2003年 6月号)