聖書箇所:ルカによる福音書24章1~12節
「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン」
女たちが、泣いています。愛する者の命が奪われたからです。不当にも…。
それは、突然でした。そんなことが起こるとは、想像もしていなかった。突然に、世界は、日常は変わってしまった。裁かれるべき罪などないのに、捕らえられ、連行されます。兵士たちは口々に、「お前は何者だ。なぜ従わない。我々と戦うつもりか」とがなりたてます。ある者は殴りつけ、唾を吐き、無抵抗なその人の命を奪っていった。女たちが見ている前で…。
女たちはただ、見ていることしかできませんでした。恐怖と不安の中で足がすくんでしまい、何もできなかった。まさか、ここまでされるとは思っていなかったのかもしれません。彼女たちは、そんな崩れ落ちた亡骸を、丁重に葬ることもできなかった。ただただ、泣き崩れるしかなかった。悲しみ、信じられないという思い、憎しみ、怒り、恐怖、絶望…、色んな感情が渦巻く中で、女たちは泣くしかなかったのです。
マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリアたちも、そうだったでしょう。彼女たちは、イエスさまを愛していました。心の底から尊敬していました。おそらく、この女性たちはイエスさま一行と行動を共にし、彼らの身の回りの世話をしていたのかもしれません。食事の準備をし、汚れ物の洗濯をし、繕い物などもしていたでしょう。彼女たちにとっても、イエスさま一行は家族だった。
イエスさまは、家族以上のかけがえのない存在だったに違いありません。そんなイエスさま一行が夜中に出かけたと思っていたら、逮捕されたと聞かされた。当時のユダヤ社会では、女性は身分の低い存在でしたから、おそらくイエスさまに近づくことは不可能だったでしょう。遠巻きに、人混みの後ろうの方から様子を伺うことしかできなかった。それでも、男の弟子たちは我が身可愛さに隠れてしまっていたにも関わらず、女たちは常にイエスさまを追いかけていきました。愛する者を放ってはおけないという女性の強さがあったのだと思います。福音書を読みますと、女性だけです。ヨハネを除いて。イエスさまの十字架に立ち会ったのは。そして、葬りに立ち会ったのは。
イエスさまが十字架上で息を引き取られたのは、金曜日の午後3時頃だと伝えられています。ユダヤの理解ですと、日没から次の日がはじまることになっており、次は土曜日、安息日です。ですので、葬りをするためにも時間がありませんでした。イエスさまの遺体を引き取ったのは、アリマタヤのヨセフという人です。これも、通常ではあり得ないことだったと言われます。なぜなら、処刑された罪人を丁重に葬ろうとする人など、いなかったからです。
ヨセフはあまり時間のない中でイエスさまの遺体を引き取り、最低限の礼節をもって、イエスさまを葬りました。そこでも、女性たちはただ見守ることしかできなかった。手を出すことが許されなかったからです。ですから、「家に帰って、香料と香油を準備した」のです。それが、本来のユダヤの葬りだったからです。せめて、丁重に葬りたかった。それが、残された者ができる僅かなこと。
おそらく、女性たちには他の目的もあったのでしょう。それは、別れをすること。それは、あまりに突然で、予期せぬことだった。女性たちのイエスさまとの最後のやりとりは、「行ってくるよ」「行ってらっしゃい。気をつけて」だったのかもしれません。感謝の言葉も、愛の言葉も、まだ伝えきれていない。だから、たとえご遺体であったとしても、ちゃんと顔を見て、体に触れて、この自分達の気持ちを伝えたい。そう思っていたに違いありません。ですから、安息日が明けて、日が昇るとすぐに、彼女たちは墓に急いだのです。私たちにも、痛いほど分かる思いです。しかし、そこにはイエスさまのご遺体はなかった。墓は空であった。しかも、御使いがこのように告げたという。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」と。なんという知らせ。おそらく、愛する者の死を、その痛みを経験した者ならば、誰もが思うのではないか。生き返ってくれたなら、と。もう一度、私たちのところに戻ってきてほしい、と。そんな喜ばしき復活の知らせがここにあった。そうです。復活ほど、喜ばしき知らせはありません。
ヤイロという人の娘がいました。まだ12歳でした。彼女は今にも死にそうな病に冒されていました。ですから、彼は必死にイエスさまに娘の癒しを願ったのです。しかし、その道中で娘の死を知らされてしまった。間に合わなかった。おそらく、彼は深い絶望を味わったことでしょう。しかし、イエスさまはこの娘を生き返らせました。この出来事は、どれほどこの家族を救ったことか。あるいは、イエスさまはあるやもめの一人息子の葬儀に遭遇されたこともありました。夫を亡くし、最愛の息子をも送らなければならなかったこの女性の思いはいかばかりだっただろうか。イエスさまは可哀想に思われ、この息子を母親にお返しになられました。
この母親の喜びはどれほどのものだったでしょう。あるいは、ラザロのことも思い起こされます。イエスさまと親しかったラザロも病で死にました。その姉妹であるマルタ、マリアの悲しみが聖書にははっきりと記されています。これほど感情がはっきりと記されている箇所も珍しいと思います。そのラザロも復活した。どれほど慰められたことだろうか。そうです。復活は救いです。絶望の淵からの救いです。
これほど私たちを救うものは、ない。しかし、私たちはこう思うのかもしれません。では、私たちの父は、母は。祖父は、祖母は。兄弟、姉妹は。子どもたちは。孫たちは。いとこ、はとこは。友人、知人、恩師、同僚、仲間たちは。私たちが大好きだった、愛していたあの人たちは、誰も復活しなかったではないか。私たちは皆、それらの人々の死を悲しみ、葬ることしかできなかったではないか。復活など、復活の慰めなど、どこにあるのか、と。
確かに、そうです。それらは、ごくごく一部の人々。ほとんどの人々は復活などしなかった。そうです。ここに登場してくるマグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリアたちも、いずれ死の時を迎えたでしょうが、誰一人復活しませんでした。彼女たちからイエスさまの復活を知らされた弟子たちも、誰も、誰一人として復活しませんでした。では、復活など、そもそもあり得ないのか。期待するだけ損なのか。
いいえ、そうではない。イエスさまが復活された。それだけで十分なのです。それだけで信じるに値する。それだけで希望がもてる。イエスさまが復活されたという事実だけで、私たちはこの困難な世界を生きていける。そして、神さまの御心に従って安らかに息を引き取っていける。看取っていける。そう、弟子たちは、この女性たちは考えた。受け止めた。受け止めることができた。人々を復活させ、人々を絶望からお救いくださった方が、まさに復活されたからです。これ以上の希望、確かさはない。
もちろん、信じられないことです。信じるしかないことです。この女性たちも半信半疑だったのかもしれない。弟子たちに至っては、全く信じなかった。信じられなかったのです。それが、私たちの姿でもある。でも、聖書にはこうも書かれていました。「『まだ、ガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。』そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した」。イエスさまのお言葉を思い出したからこそ、婦人たちは信じることができた、という。
イエスさまは嘘つきでしょうか。とんでもないペテン師でしょうか。ありもしないことで民衆を煽っていった扇動家でしょうか。イエスさまの言動は、そんなにも信頼に値しないようなものなのでしょうか。一番身近にいたこの女性たちは、そのことを一番よく知っていたはずです。
イエスさまは復活されました。それで、十分です。たとえ、未だに私たちは、私たちの愛する者たちは復活の奇跡、命を体験していなくとも、その復活のイエスさまが私たちにも復活を、その新しい永遠の命を、死に打ち勝つ力を、確かな望みを約束してくださっているからです。イエスさまは必ず私たちの涙を拭い取ってくださる。そう信じます。