【説教・音声版 】2022年5月29日(日)10:30  主の昇天主日礼拝  説教 「キリストと共に 」 浅野 直樹 牧師

聖書箇所:ルカによる福音書24章44~53節


週報等でもご案内していますように、来週の礼拝後、ヴィニヤードの会・女性会の中で教会員による「宗教画」のレクチャーが行われます。私も興味があり、大変楽しみなのですが、残念ながら所用がありますので出席できません。

本日は「主の昇天主日」ですが、このイエスさまの昇天の出来事を取り上げた宗教画も多く残されています。有名なのは、イタリアのジョットの作品でしょうか。私もちょっと調べてみて、いくつかの作品を見てみました。どれも印象深いものでしたが、私自身はちょっと気になることがあったのです。それは、イエスさまを見送る弟子たちの表情です。皆、一様に神妙な、あるいは悲しみといいますか、どこか呆然としているような表情として描かれていました。確かに、イエスさまが天に昇っていかれるのですから、「は~(ため息)」と見送る気持ちも分からなくない。私も、その場に居合わせたなら、そういった心持ちだったでしょう。

しかし、聖書は「大喜びで」と記しています。もちろん、厳密に言えば、この「大喜びで」と記されているのは、昇天の出来事の時ではなくて、イエスさまが天に挙げられた後、イエスさまを伏し拝んで「大喜びでエルサレム」に帰っていった訳ですから、この昇天の出来事の時にどんな心持ちであったは分からないわけです。ですから、喜びの表情で描くことは出来なかったのかもしれない。しかし、私はここに、この昇天の出来事の一つのツボがあるように思えてならないのです。

イエスさまのこの昇天の出来事は、弟子たちにとっては「今生の別れ」を意味したでしょう。もう二度と、この地上ではイエスさまとお会いすることができない。なのに、なぜ弟子たちは「大喜び」でその場を後にできたのか…。

弟子たちはすでに一度、イエスさまとの「今生の別れ」を経験していました。少なくとも、その時の弟子たちは、そのように受け取っていたでしょう。お分かりのように、イエスさまの十字架の死の時です。この時の弟子たちの様子を私たちは知っています。とても「喜ぶ」なんて記せるような状態ではなかった。そして、それは、私たちにも分かる感覚です。それが、「死」「死別」というものだから、です。彼らは、沈鬱な表情を浮かべて自分達の部屋に鍵をかけて閉じこもることしかできなかった。ある意味、この世の終わりでもあるかのように。全てが潰え去ってしまったかのように。

キリストの昇天:ジョット、スクロヴェーニ礼拝堂(パドヴァ)


しかし、イエスさまはそんな彼ら弟子たちをお見捨てにはならなかった。復活されたイエスさまは弟子たちを訪ねられた。信じられないでいた弟子たちを。鍵をかけ閉じこもっていた弟子たちを。無理矢理にその扉をこじ開けるのではなく、そっと中に立ち、「平和があるように(シャローム)」と声をかけて下さった。もう二度と会えないと思っていたのに、もう二度とあの頃には戻れないと思っていたのに、イエスさまは来てくださった。それが、弟子たちの救いとなった。

今日の福音書の日課であるルカ福音書では、復活から昇天まで、まるで一日の間に起こった出来事であるかのように記されていますが、使徒言行録では復活から昇天までの4
0日間を、復活のイエスさまは弟子たちと共に過ごされたことが記されています。両者は同じ著者によって書かれたと考えられていますので、どちらか一方が正しい、というのではなく、補完関係にあると考えた方が良いと思います。では、そんな40日間を弟子たちはどのように過ごしていったのか。使徒言行録の方では「神の国について話された」と記されていますが、それは、このようなことではなかったか、と思います。今日の日課の45節以下です。「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。』」。

先ほどは、一度目の「今生の別れ」のとき、弟子たちはイエスさまとの死別で相当に落ち込んでいた、と言いました。しかし、これまでも度々お話ししてきましたように、彼らの心を暗くさせていたのは、単に死別のことだけではなかった訳です。つまり、罪の問題。直接的には、イエスさまを裏切ってしまったという取り返しのつかない過ちです。それが、より一層彼らの心を重くしていた。しかし、それは、先ほどの聖書の言葉から言えば、彼ら弟子たちが聖書の言葉を悟っていなかったからです。悟っていないのであって、知識がなかった訳ではない。

現に彼らはイエスさまから受難予告も、少なくとも3度は受けていたはずです。知識としてはあった。しかし、悟っていなかった。自分の心に落とし込むことができていなかった。だから、彼らはイエスさまの十字架の死を、単なる「今生の別れ」の死、もっと言えば、「不幸な死」としか受け止められなかった訳です。そんな彼らの心を、復活のイエスさまは開いてくださった。ここでも大切なことは、弟子たちが自分で開いたのではないということです。イエスさまが弟子たちに聖書を悟らせるために心の目を開いてくださったのです。

だから、イエスさまの十字架と復活の意味が分かるようになった。知的に、だけでなく、自分の救いの出来事として悟ることができるようになった。だからこそ、そんな弟子たちだからこそ、「罪の赦しを得させる悔い改め」を宣べ伝えるという使命が与えられていったのです。つまり、イエスさまの昇天による「今生の別れ」が「今生の別れ」ではなくなった、ということです。彼らの心を重く、暗くしていたイエスさまの死の意味・理解も、また罪の赦しについても、今や彼らは悟ることができるようになっていた。復活のイエスさまによって、心が、心の目が開かれたから、です。だから、彼らの別れの姿勢が、こんなにも変わったんだと思うのです。喜べるようになった。

しかし、それだけでもないように思います。先週の日課では、主に「聖霊の働き」ということにスポットを当てて話させていただきましたが、このようにも記されていたからです。ヨハネ14章27節以下。「『わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る」と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。』」。

イエスさまの復活、そして昇天の出来事で私たちが気付かされることは、イエスさまが「神の子」である、ということです。ちなみに、イエスさまに限らず、私たちの愛する者たちが天に召される時、「わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大だからである」といった信仰に立てるなら、これほど幸いなことはない、と思います。ともかく、イエスさまが神さまの子どもならば、父なる神さまのところに戻られるということは、喜ばしいことです。決して、悲しいことでも、悲惨なことでもない。ただし、寂しいことには違いない。今までずっと一緒にいてくれた人がいなくなってしまうのだから…。そして、不安な気持ちにもなるのかもしれない。

イエスさまは、ここで「去って行くが、再び戻ってくる」とおっしゃいます。これは、復活を意味するとか、あるいは再臨を意味すると考えられています。そして、そんな今を、つまり昇天から再臨までの期間を、中間期、あるいは教会の時代などとも言われるのです。つまり、イエスさまと直接的には、顔と顔を合わせるようにはお会いすることができない、そんな時代に私たちは生きている、ということです。ですから、時に、私たちはイエスさまの「不在」を感じるようなことも起こってくる。だからこその、聖霊の約束でもある訳です。イエスさまはこう語られる。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」。決して独りぼっちにはしない、ということでもあるのでしょう。そう約束してくださっている。

弟子たちは、またイエスさまと別れなければならなかった。辛かったに違いない。しかし、彼らは喜ぶことができたのです。復活のイエスさまによって、心の目が開かれたからです。聖書を悟ることができたからです。十字架の意味も、復活の恵みも受け止めることができた。そして、罪が赦されていることも実感できた。それだけではない。イエスさまが神の子であり、父なる神さまのもとに帰ることが幸いであるということを、しかし、イエスさまは聖霊を遣わしてくださって、常に共にいて、決して私たちを独りぼっちにはしないということも、復活のイエスさまと出会って、天に昇られるイエスさまを仰ぎみて、確信していったのではないでしょうか。だから、彼らはイエスさまを伏し拝むことができた。大喜びで帰ることができた。そして、それが、中間時代、教会の時代と言われる現代に生きる私たちの姿でもあるのではないか。そう思うのです。

先ほどは、ルカ福音書と使徒言行録は同じ著者が書いたもので、補完関係にあると言いました。当然、共通した事柄がある訳です。今日の日課でもそうです。それは、宣教が託されている、ということです。これは、次週のことになりますが、聖霊降臨の出来事は、宣教活動に力を与えるためのものでもある訳です。そのことも、私たちは忘れてはならないでしょう。それが、教会の誕生日でもある。ぜひ、来週の聖霊降臨祭を、そのような心持ちで備えていきたいと思います。