聖書箇所:ヨハネによる福音書16章12~15節
先週は、聖霊降臨・ペンテコステの出来事を覚える礼拝を共々にもつことができましたことを、大変嬉しく思っています。特に、私たちにとって喜びだったのは、礼拝式の中でお二人の洗礼式を行うことができたことではなかったでしょうか。
では、なぜお二人は洗礼をお受けになられたのか。聖霊が働かれたからです。ご自身たちがどう自覚していようと、聖霊の働きがなければ、誰も「イエスは主」と告白できないからです。それは、聖書が明確に語っているところです。しかも、この聖霊の働きは、洗礼を受けられたご本人に限ったことでもないでしょう。今回受洗されたお二人は、共にご家族に信仰者・キリスト者がおられました。そんなご家族の熱心な働きかけがあったからだ、ということでも必ずしもないのかもしれません(そうだったのかも知れません。分かりませんが…)。
私の両親兄弟も未だに信仰者ではありませんが、身内だからこその難しさがあることも実感しているつもりです(特に私の親は捻くれていますので)。
しかし、それでも、そんなご家族の姿は決して小さくはなかったと思います。たとえ言葉で語ることがなくても、ご自身が礼拝に出かけられる姿を通して、祈る姿を通して、信仰者として生きている姿を通して、やはり何らかの影響はあったと確信しています。そうです。それらご家族にも聖霊の働きがあったからです。たとえ、無意識・無自覚だったとしても、そこに聖霊の働きがなければ、そのような影響は与えられなかったでしょう。あるいは、ご家族だけでもなかったのかも知れない。受洗準備会の中で、お一人は「教会員の仲間になれるのが楽しみだ」と明確に語られました。つまり、皆さんにも聖霊が働いていたのです。そんな聖霊の働きがあったからこそ、お二人は洗礼へと導かれたのです。
先ほども言いましたように、先週は聖霊降臨祭を共に祝ったわけですが、ここでもう一度改めてお伝えしたいのは、聖霊降臨の出来事が宣教・伝道と深く結びついている、ということです。聖霊降臨の出来事があったからこそ、宣教がはじまっていった。逆に言えば、聖霊降臨の出来事がなければ宣教は起こらなかったのかも知れないのです。あの聖霊降臨の出来事が起こる前の教会は何をしていたか。皆集まって熱心に祈っていました。
使徒言行録1章12節以下に記されていることです。それ自体は大変素晴らしいことですが、しかし、もしそれだけなら、数年後、数十年後には、その集まりは衰退し、消えてしまっていたのかも知れないのです。聖霊降臨の出来事を受け、弟子たちを代表してペトロが福音を語っていった時に何が起こったか。新たに3000人が仲間に加わった、という。もちろん、それだけではありません。当初はユダヤ人だけにしか福音宣教はなされていませんでしたが、次第にサマリヤ地方や異邦人の地にも福音が伝えられていき、また教会が生まれて、パウロやバルナバなどが、それらの教会から宣教へと遣わされて行くようにもなりました。まさに、聖霊降臨の出来事から、教会の歴史ははじまっていったのです。
誤解を恐れずに言うならば、今私たちの教会の教勢が徐々に落ちてきているから、といった危機感から宣教・伝道を頑張ろう、と言うのではありません(改めて必要性に気づくきっかけにはなったかも知れませんが)。そうではなくて、イエスさまがそう望まれているからです。イエスさまがそう命じておられるからです。それが、教会のアイデンティティーだからです。そのために、聖霊は降られた。しかも、皆さんお一人お一人が今この場にいるのも、先ほども言いましたように新しい仲間が加えられたことも、聖霊の働きがあるから。つまり、2000年前の出来事ではなく、現実に、この現代にも、この私たちの教会においても起こっていることなのです。そのことを、もう一度心に刻みたいと思います。
今日は三位一体主日ですので、三位一体なる神さま…、つまり父なる神さま、子なるイエス・キリスト、そして聖霊なる神さまが登場してくるこの箇所が日課として取り上げられているのでしょう。この箇所については、前後を含めて非常に多くのことを教えられるところですが、今日は細かい話しはしません。一つだけ。つまり、皆同じ思いである、と言うことです。こうあるからです。聖霊については、イエスさまは「自分から語るのではなく、聞いたことを語」るのであり、「わたしのものを受けて」という訳ですから、イエスさまの思いを忠実に語る、教える、と言うことでしょう。そして、イエスさまも、「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである」という訳ですから、ここにも一致が見られる訳です。
つまり、この三位一体なる神さまの何よりの特徴は、「一致」ということです。「同じ思い」ということです。そういう意味で、齟齬はあり得ない。では、どんなことで一致しているか。私たち人類の救い、と言うことです。しかも、罪人である私たちの救いです。私たちをお創り下さった、生みの親と言ってもいい神さまから離れてしまい(まさに恩知らずです)、御心から外れて自分勝手な道を行き、他者を傷つけ、自分自身をも傷つけ、しまいには自己正当化して戦争まで引き起こす、そんな身勝手極まりない私たち人類を救うためです。罪を赦し、罪ある生から解き放つためです。そのためなら、なり振り構わない、どんな犠牲をも厭わない、そんな思い、志の一致です。
私は、二十代の頃、北森嘉蔵の『神の痛みの神学』に出会い、衝撃を受けました。それまで、もちろん信仰はもって生きてきましたが、「苦しまれる神さま」(イエスさまではありません。父なる神さまです)といった理解は、想像もしていませんでした。考えてみれば、当然かも知れません。ご自分の独り子を殺すのですから。あの実の子イサクを捧げるために自らの手で命を奪おうとしたアブラハムの心境と重なるところがあるでしょう。ご自分の意志で、敵対する私たちのために、罰すべき咎を愛する独り子に全て負わせて、自らの手で命を奪う。苦しくないはずがない。辛くないはずがない。痛くないはずがない。まさに、はらわたが引き裂かれるような思いです。
何度も、躊躇したのかも知れない。そんな計画、止めてしまえ、と思われたのかも知れない。それでも、神さまは私たち人類を愛された。不出来でどうしようもない不良息子・娘であるのかも知れないが、どうしても見捨てることなどできなかった。どんな犠牲を払ってでも、救いたい、と願われた。たとえ、ご自身が引き裂かれるような思いを味わうことになろうとも。それは、イエスさまも同じなのです。だからこその十字架。そして、そのことを聖霊は忠実に私たちに伝えてくださる。教えてくださる。悟らせてくださる。その思いを。そこに込められている神さまの、イエスさまの愛を。
そんな救いを、ヨハネ風に言えば、「命を与えること」と言えるのかも知れません。ヨハネ20章30節以下に記されている本書の目的の中に、このように記されているからです。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。また、小聖書とも言われるヨハネ3章16節にもこのように記されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。私たちをこの命に生かすために、三位一体なる神さまはみわざをなしてくださったのです。
ところで、今日の使徒書の日課には、こんな言葉も記されていました。ローマ5章5節、「希望はわたしたちを欺くことがありません」。そうです。私たちが生きるためには、この希望も必要不可欠です。希望がなければ、人は生きていけないからです。しかし、パウロは、そんな希望が希望としてすんなりと手に入るものではないことも記すのです。「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」。むしろ、苦難が、忍耐が、希望を生むと言うのです。
なぜか。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。これは、いわゆる机上で生み出した神学ではないと思うのです。パウロは教会を迫害した人です。知らなかったとはいえ、無知だったとはいえ、とんでもない過ちを犯してしまった。償いようがありません。その彼が赦された。彼は生涯、自分の過ちの痛みと同時に、その深い愛に生かされていったことでしょう。だからこその言葉だとも思うのです。たとえ、苦難があったとしても、忍耐しなければならないような出来事があったとしても、そこにも聖霊が働かれて、神さまの、イエスさまの愛を心に注ぎ込んでくださり、決して見失うことのない、欺くことのない希望へと至らせてくださる、と。
この恵みを、愛を、希望を伝えるのが教会です。私たちです。それが、教会のアイデンティティーです。そのために、聖霊は来てくださった。なぜなら、人には、それらが必要だからです。私たちの人生は決して簡単じゃない。罪に揉まれ、道を見失い、失意と不安の虜になってしまう。だから、救われなければならない。聖霊の働きがなければ、それを伝えることもできない。だから、聖霊をいただいている、すでに心に注がれている私たちが、私たちの教会がそれを伝える。証する。たとえ言葉にならなくとも、行動で、自らがその恵みの道を歩み続けるといった姿で示す。それが、私たち自身の存在意義でもあるのではないか。そうでは、ないでしょうか。