【説教・音声版 】2022年7月3日(日)10:30  聖霊降臨後第4主日礼拝 「 二人で働く 」浅野 直樹 牧師

聖書箇所:ルカによる福音書10章1~11節、16~20節



 

今日の日課は、福音宣教に弟子たちが派遣されたといった内容だったと思います。
と、その前に、今日の旧約の日課に非常に興味深いことが記されていましたので、そのことにも少し触れていきたいと思っています。こう記されていたからです。イザヤ書66章12節後半から。「あなたたちは乳房に養われ 抱いて運ばれ、膝の上であやされる。母がその子を慰めるように わたしはあなたたちを慰める」。一般的に私たちが信じている神さまは「父なる神さま」といった理解が強いように思いますが̶̶事実、イエスさま もそう語っておられますし、聖書にも多くそのように記されていますので、そのこと自体は決して間違ってはいませんが̶̶、数は決して多くはありませんが、先ほどの箇所のよ うに聖書にはこのように母性的な神さまのお姿も描き出されているわけです。

遠藤周作は日本的なキリスト教理解に貢献したと言われていますが、それは当時のカトリック教会の厳父的な信仰理解に耐えられず、より日本的な母性的信仰理解を求めたからだ、と考えられてもいます。現代においては、「カミナリおやじ」的な父親像はすっかり鳴りを潜めていますが、少なくとも私たちが信じる神さまは、今日の箇所にありますように、幼い我が子を膝に乗せ、愛情豊かに愛おしむ「お母さん」の姿も併せ持っておられるということを忘れないでいたい、と思います。

福音書に戻りますが、今日の箇所でまず目につくのは「72人」という数です。これは、別の翻訳によると70人とも記されるものですが、それは、それぞれが翻訳に使う底本(写本のことですが)に違いがあるからです。これには色々な解釈があり、72(あるいは70)という数字は、当時考えられていた世界の民族の数だとか、あるいは、モーセを補佐した指導者たちが72人(70人)いたからだ、などの説があるようですが、それらを踏まえて、ある方はこのように言っています。「いずれにせよ、そこに浮かび上がってくるのは、世界全体の中に遣わされて行く神の民の姿です」。先ほども言いましたように、全世界の民族が72であり、神の民イスラエルを代表する人たちが72人なわけですから、「世界全体の中に遣わされて行く神の民の姿」が表されているのだ、ということです。

そうかも知れません。しかし、私はこの数を見て、単純に「意外と多いな」と思いました。なぜなら、私たちが常に意識している弟子たちは、あの12弟子だからです。その他にも女性の弟子たちがかなり同行していたようですが、私たちはどうも、イエスさまとこの12人の弟子たちだけが旅をしていた、と思ってしまっているところがあるように思うからです。しかし、実際にはもっと多くの人がいたのです。しかも、私たちはこの72人の人たちの名前すら知らない。先週は、「弟子」とはキリスト者の一部の人たちだけを指すのではなくて、私たち全てが「弟子」であるといった話をしたかと思いますが、ここでもまさにそういった印象を受けるのです。

私たちがよく知っている12弟子、ペトロもヨハネもヤコブも含まれているあの12弟子は、ルカによるとすでに9章のところで宣教に遣わされていました。今度の72人は、それ以外の名も無い「弟子」たちだったと言っても良いと思います。そんな弟子たちも、あの12弟子と同じように、同じ権威を頂いて宣教に遣わされていく。そのことも、私たちは忘れてはいけないのではないか。しかも、イエスさまはこうおっしゃるのです。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に願いなさい」と。これは、あの12弟子を派遣した時にはない言葉です。収穫は多い。しかし、働き手が少ない。だから、収穫の主に願いなさい、とおっしゃる。それは、新たな働き手を送ってください、との祈りだけなのだろうか。この自分も一人の働き手としてください、との祈りも込められているのではないだろうか。

私たちの教会は大きな課題を抱えています。ご存知のように、牧師のなり手が少ないということです。昨年、今年と神学校の卒業生はいませんでした。三浦さんが卒業される再来年は複数の牧師の誕生を期待することができますが、その後はあまり続かない様子です。ですから、「働き手を送ってください」との祈りは喫緊の課題でしょう。しかし、奇しくも、72人という数はコロナ前の私たちの礼拝の人数と近い訳ですから、皆さんの中からも「働き手の一人としてください」と祈る方が与えられることも願っています。それは、必ずしも「牧師になる」ことを意味しない、と思います。信徒のままで、皆さんの出来る範囲でいい、と思う。それでも、祈っていただきたい。なぜなら、「収穫は多いが、働き手が少ない」とイエスさまが語っておられるからです。

そんな派遣される72人は、一体何をするのか。もちろん、宣教です。では、具体的には何をすれば良いのか。「その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」と記されている。ここを読みますと、一気にハードルが高くなったように思えてきます。先ほどは、牧師が「出来る範囲でいい」と言ったではないか。だから、「ならば…」と祈ってみたのに、求められていることがこんなこととは。この私に、果たして病人を癒せるだろうか。無理に決まっている。そう思われるかも知れません。もちろん、牧師だって病人を癒すことなどできない。確かに、そう。しかし、こうも思う。

「病気」といっても、色々な病気がある。医者でしか治せない病気もあれば、そうでもない病気もあるではないか、と。
先日、ある新聞記事を読みました。それは、子どもたちの幸福度が、何ヵ国だったかはっきりとした数字は忘れてしまいましたが、確か30数カ国のうちでワースト2位だったというのです。下から2番目。今の子どもたちは、全然自分が幸せだと感じていないらしい。正直、ショックでした。色々と考え込んでしまった。物質的に豊かだから、かえって幸福感が湧かないのではないか、とも考えた。しかし、調査した国の中には、日本と同様に物質的な豊かさを持った国々も多くあるはずです。なのに、この違いはなんだろうか。もし、これが事実だとしたら、原因は一つ二つではなく、国自体が病んでいるのかも知れない、そう思いました。

確かに、牧師としていろんな悩みを聞く機会があります。「病気」としか思えないようなこともあります。若い頃は、それこそ「癒さなければ」と無理をして、かえって失敗してしまったことも多々ありました。今は、相手の話を聞いて、意見を求められれば、一つの参考にしてと自分の体験談を話して、相手のために祈ることくらいです。それでも、「助けられた」と言ってくださる方が少なからずいてくださいます。一人一人にできる癒しの業があるのかも知れません。そんな「癒しの業」とももちろん関係する訳ですが、最も大切なことは「神の国はあなたがたに近づいた」と告げることです。このことを考える上でも、今朝の使徒書の日課、ガラテヤ書6章7節以下の言葉も非常に大切になってくるのではないでしょうか。なぜなら、「神の国」とは「神さまの御支配」を意味するからです。つまり、神さまとの関係性を無視しては、決して成り立たない、ということです。

ご存知のように、このガラテヤの教会はパウロが生み出した教会の一つですが、パウロが不在の間にユダヤの律法主義が入り込んでしまい、混乱を起こしていました。パウロはそれを正すためにこの書簡を送った訳ですが、ここでパウロが非常に強調しているのは福音の重要さ、です。律法主義とは、一言でいってしまえば、己の力で救いを勝ち取る、ということでしょう。それに対して福音とは、神さまの恵みにただ身を任せる、ということです。幼子のように。出来のいい熱心は子どもは、父親の高い期待に応えたいと強く願い、あらん限りの努力をするものです。

それもまた、正しい生き方なのかも知れない。しかし、人はそうとばかりに生きられない。それに、そういった子どもは、親の愛情を勘違いすることも多いのです。自分に何か価値がなければ、愛してはもらえないのだ、と。そのままの、ありのままの自分では受け入れてはもらえないのだ、と。期待に応えなければ、そういった自分でなければ愛される資格がないのだ、と。しかし、親は、いいえ、少なくとも私たちが信じる神さまはそうは思っておられないはずです。私たちが信じる神さまは、我が子を膝に乗せ、愛おしまれる方だからです。子どもが何をしたか、どんな能力があるか、ではない。その存在自体が愛おしい。確かに、期待はされている。しかし、期待に応えなければ愛されないのではありません。その存在自体を愛し、愛おしんでおられるからこそ期待しておられるのです。愛の中に生きていって欲しい、と。だから、やはり律法主義は間違っている、と言わざるを得ない。

知らず知らずの内に、幸福感を抱けない病人を生み出していってしまうかも知れないからです。しかし、私たちは、福音を知っている。イエスさまの十字架と復活のみ業を、その意味を知っている。それは、この言葉に示されている通りです。「あなたたちは乳房に養われ 抱いて運ばれ、膝の上であやされる。母がその子を慰めるように わたしはあなたたちを慰める」。
その神の国が近づいたことを、私たちは告げるのです。神さまの愛の御支配が、あなたのすぐそばに来ているのだ、と。それでも、私たちは、勇気が出ないのかも知れません。

この私たちに一体何ができると言うのか、と。しかし、この言葉も忘れないでいたいと思います。「御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」。二人ずつ、です。決して一人ではない。励まし合える仲間がいる。そして、私たちの後からイエスさまご自身が来てくださるというのです。そうです。人を救われるのは、私たちの後から来られるイエスさまです。私たちではない。私たちはただ、イエスさまより先に、神の国が近づいたことを伝えればいい。自分のできる範囲で。自分もまた味わったものとして。それだけでいい。ならば私たちも、「働き手の一人としてください」と祈れるのではないでしょうか。