「読書会ノート」 小林秀雄 『モオツァルト・無常ということ』 新潮文庫

 小林秀雄 『モオツァルト・無常ということ』 新潮文庫

今村 芙美子

 

「モオツァルト」

モオツァルトを知る当時の音楽家達は、彼を機械仕掛けの神童として眺めた。少年時代から、曲を頼まれれば直ぐに引き受け、簡単に素晴らしい作曲が出来上がるからだ。35才の生涯の作曲数は数知れない程多い。小林秀雄は、乱脈な青春時代の中で、モオツァルトのト短調のシンフォニーが頭の中で鳴り、脳味噌に手術を受けた様に驚き、感動でふるえたとある。

皆さんは「アマデウス」という映画を見たでしょうか。社交界のモオツァルトは奇声をあげた笑い声を出し、皆が恥ずかしがるような下品な事を言ったり、いつも落ち着かず、からだのどこかを動かしている場面等が描かれていました。しかし秀雄は、モオツァルトの肖像画の中の、大きな、悩みを持った深い目を見、モオツァルトの心の本質は人間の苦しみ、悲しみと感じ取ったのだと私は思う。

モオツァルトが20才の頃に父親に書いた手紙に「2年来、死は人間達の最上の真実の友だという考えにすっかり慣れております。恐らく明日はもうこの世にいまいと考えずに床に入ったことはありません。しかも僕を知っている者は、誰も僕が付き合いの上で陰気だとか悲し気だとか言える者はない筈です」とある。スタンダールはモオツァルトの音楽は悲しみ、と言っている。私達はト短調のシンフォニーを聴いた。美は人を沈黙させると著者は言う。曲を聴き終え、言葉は要らなかった。

 

「徒然草」「当麻」「雪舟」

小林秀雄は吉田兼好を尊敬し、「見え過ぎる目を如何にして作品にするか」が徒然草の精髄と言っている。同じように「当麻」では、能芸術は秘めた働きこそ、そこに花が表現されると言い、「雪舟」も、全てを完全に描ききるのではなく、如何に省くかも絵の美を生ませるのだと。

 

「無常ということ」

「無常ということ」では、人の心、美意識も時の流れとともに変わっていく実感から、その感動を語っている。「蘇我馬子の墓」も微妙なこだわりを言う。血で血を洗う大和の時代の権力者、馬子が生きる未開の地に、聖徳太子という傑出した思想家が現れたがその思想の芽がその地の育たず、太子の一族を亡す。その馬子の墓は簡素なたたずまいなのに、何故か美しく感ずると著者は言う。その天井にあたる盤岩の上に佇み、秀雄は歴史について考える。歴史書は書く人の主観や立場や時代の影響から免れることはできない。不確実な想像が客観的事実として語られることもあろう。歴史は所詮そういうものである。昨今の教科書問題が思い起こされた。「実朝」では私は実朝の歌の哀しみに驚き、彼の苦しい孤独な短い人生を痛み、その歌の早熟さの意味を想った。次の歌も詠んで哀しみの深さを知る。

大海の磯もとどろによする波
われてくだけてさけて散るかも

(2001年 5月号)