【説教・音声版】2022年8月21日 聖霊降臨後第11主日礼拝 説教「安息日にすべきこと」浅野直樹 牧師

聖書箇所:ルカによる福音書13章10~17節



本日の福音書の日課は、「安息日」の問題が取り上げられていました。

しかし、正直に言いまして、今日の私たちからすると縁遠い議論のようにも思います。確かに、今日の私たちの礼拝の日、主日を「安息日」とする捉え方はあります。しかし、後程にも触れますが、そもそもユダヤ教のいう「安息日」の起源は、創世記の創造物語に基づくものです。つまり、六日間で創造の業を終えられた神さまが、七日目に休まれた、というものです。

ですから、「安息日」は週の最後の日…、ユダヤ教の暦では日没から日没までが一日と考えられていますので、金曜日の日没から土曜日の日没までが「安息日」となるわけです。いわゆる「土曜安息」と言われる所以です。それに対して、私たちの主日礼拝は、イエス・キリストの復活と深く結びつくものです。金曜日に十字架刑で命を落とされたイエスさまは、三日目、つまり週の初めの日、日曜日に復活されたことが福音書等に記されています。それが、私たちキリスト者、キリストの教会の礼拝の重要要件となった。

迫害下の中、真っ暗なカタコンベ(地下墓地)でその日に隠れて礼拝するほどです。つまり、私たちにとっての礼拝とは、復活の主を礼拝することを特徴としたわけです。確かに、そうです。そういう意味では、この両者は似て非なるものである。しかし、ある方が指摘されているように、今日の私たちの礼拝は、それにとどまらない訳です。つまり、今日の箇所にも記されていますように、イエスさまの礼拝とも結びついている。

つまり、イエスさまは安息日ごとにシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)で礼拝をされていた。そこでは、祈りがなされ、讃美が行われ、聖書の朗読が行われ、そしてイエスさまが聖書の解き明かし、説教をされていた。それが、今日の私たちの礼拝の母体ともなった。つまり、安息日ごとになされていたイエスさまの礼拝とこの私たちの礼拝とが時空を超えて繋がっている、ということです。そのこともまた、私たちは忘れてはいけないのだと思います。では、それでもなぜ、私たちはこの「安息日」の問題を縁遠く感じるのか。

それは、この私たちの礼拝が、私たちの自由に属するもの、と考えているからではないか。そう思う。礼拝とは、果たして「自由」なのだろうか。もちろん、強制ではありません。礼拝に限らず、信仰というものは自主性、主体性が大切だと思います。様々な事情があることも理解できます。特に、この現代日本社会では仕事等のことも含めて簡単ではない、ということも。しかし、それは果たして、私たちのいうところの「自由」ということなのだろうか。そこは少し立ち止まって、大いに、あるいは深く考えてみても良いのではないか。そう思うのです。


ともかく、今日の個所では、「安息日」の礼拝の中で、イエスさまが癒しの業をなさったことが問題となった訳です。私たちは、先ほども言いましたように、この「安息日」と私たちの礼拝とが深く関わっているのに、安息日に対する理解・認識が薄いのかも知れません。この安息日規定を代表するものとして、モーセの十戒が挙げられるでしょう。つまり、律法の代表格とも言える十戒の中に、しっかりと安息日規定がある、ということです。出エジプト記20章8節「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。

あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」。先ほども言いましたように、ここに安息日の起源が記されている訳です。しかし、イスラエルの民たちは、この安息日を守ろうとはしませんでした。

今日の旧約の日課であるイザヤ書58章には、このように記されていました。「安息日に歩き回ることをやめ わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ 安息日を喜びの日と呼び 主の聖日を尊ぶべき日と呼び これを尊び、旅をするのをやめ したいことをし続けず、取り引きを慎むなら そのとき、あなたは主を喜びとする」。ここに、当時の人々のそうではない実態…、つまり、安息日を尊ぶことをせず、したいことをし、旅行に行き、商売をしていた、そういった実態があった訳です。つまり、安息日に対して人々は自由に振る舞っていた、ということでしょう。それに対してイザヤをはじめとした預言者たちは、再三にわたって警告をしていきました。

なぜなら、安息日を尊ばずに、自由に振る舞うということは、安息日のあり方に止まらないからです。つまり、それは、律法全体に及ぶ、つまり、神さまを尊ばずに、神さまに対して自由に振る舞うということに、当然のように結びつくことになるからです。その結果、社会は乱れていきました。弱者が顧みられなくなり、弱肉強食が当たり前のような、当然の権利と言わんばかりの社会となっていきました。不正が蔓延(はびこ)り、賄賂が蔓延し、裁判が歪められ、あらゆる階層で正義が失われていきました。当然、そんな社会を神さまは放置されないだろう。

預言者たちが語っていったことです。後に、そんなユダヤ社会が大きな不幸を味わったことはご存じでしょう。亡国の憂き目にあった訳です。そこで、彼らは悔い改めた。このような不幸の原因は、安息日を、律法を守らなかったことにあるのだ、と。だから、彼らは、安息日を、律法を守ることに真剣になりました。

今日の日課に登場してくる会堂長もそうです。彼の言い分は、そんな反省から生まれた、至極真っ当なものだと思います。私たちは、どうしても印象としてイエスさまに反対する勢力の人々を「悪」と退けてしまいやすい訳ですが、彼らに対しても正当に評価すべきだと思います。彼は、会堂長としての当然の責務を果たしただけです。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」。彼は、癒しの業を
「胡散臭い」と非難したのではありません。この女性を苦しめたかったわけでもない。治してもらったらいい、とも言っています。

しかし、この女性の病状は急を要するようなものではなかった訳です。18年も患っていた慢性病と言っても良いでしょう。一日ずれたからといって大したことにはならない。だから、安息日以外の日に治してもらったらいい、という。確かに、合理的でもある。しかし、イエスさまは、そんな彼、彼らに対して「偽善者」と言われるのです。

偽善者…。実は、先週の日課にも登場していました。ルカ12章56節「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか」。つまり、天候の予測などはたくみにできるくせに、イエスさま・メシア・救い主の到来、つまり、神の国の到来についての見極めがどうしてできないのか、と言われている訳です。偽善者と聞くと、私たちは腹黒い人、表面的には正しそうに振る舞ってはいても、裏で何をしているのか分からない、そんなふうにイメージしてしまいやすいと思いますが、そうではありません。彼らは至って真面目で常識人です。信仰熱心で善良ですらある。しかし、実にそこが難しいところです。それでも、偽善というものは生まれてしまうからです。

先週の日課で、イエスさまは「分裂」をもたらすために来られた、と言われました。それは、私たちに限りません。初めに、イエスさまご自身が分裂をもたらされたのです。今日のところでも、そうです。なぜイエスさまはわざわざ波風を立てるように、あえて安息日に癒しを行われたのか。あの会堂長がいうように、明日また来なさい。そうしたら癒してあげよう、ということだって十分できたではないか。それでも、この女性にとっては十分に喜ばしいことではなかったか。

むしろ、たった一日の違いで、争いに巻き込まれることになることは、この女性にとっても本意ではなかったのではないか。そう思う。結局、イエスさまが反感を買い、十字架に至ったのは、彼らのいうところの「安息日」を守らなかった、ということにも起因する訳です。では、なぜそうまでして、安息日に波風を立てる必要があったのか。先ほどお話しした安息日を大切にするというところに、偽善があったからです。

ところで、皆さんは出エジプト記20章以外に十戒が記されているところがあることをご存じでしょうか。申命記5章です。ここでの安息日規定は、このようになっています。
「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るように命じられたのである」。

確かに、安息日に仕事をすることは禁じられています。しかし、それは、仕事をしないためではなくて、休めるためです。奴隷も家畜も含めて、全ての者が。それは、安息日が解放を記念する日でもあるからです。その喜びを再確認していくためにも、また他者を解放していくためにも安息日を守ることが要求されている。

確かに、一方では会堂長の主張も間違ってはいなかったでしょう。かつての反省を生かして、安息日を蔑ろにしないこと、自由の名の下に軽んじられることを戒めることも、大切な部分だったのかもしれません。しかし、そのために、もう一つの、いいえ、本来の目的を見失ってしまっていては、それは偽善に成り下がってしまう訳です。それを、イエスさまは正された。本来、安息日とは、人々が解放されるときではないか、と。
私たちは何と、宗教・信仰の名を借りた偽善を繰り返してしまっていることか。これもまた、歴史を見れば明らかでしょう。その偽善をイエスさまは正してくださる。例え、そこに分裂が起ころうとも、波風が立とうとも、むしろ、その矛先をご自身で引き受けられて、十字架さえ引き受けられて、神さまの御心へと、人々の救いへと、正していってくださった。

では、本来の安息日とは一体どんな時か。それは、この癒された女性に如実に表されていると思います。つまり、解放です。そして、そこからくる賛美です。おそらく、この女性は、少なくとも病の中にあった18年間は、心から神さまを賛美することができなかったのではないでしょうか。それは、私たちにも経験があることです。この病の原因は自分の罪のせいではないか。神さまは私を罰しておられるのではないか。なぜ祈りに答えてくださらないのか。あるいは、あのヨブのように、この病は神さまの不当な扱いによると思っていたのかもしれない。いずれにしても、神さまとは距離が空いてしまっていたことでしょう。

しかし、イエスさまは、癒しによってその距離を、隔ての壁を取り除いて下さった。それが、解放です。解放とは、自由をもたらすものです。しかし、その自由とは身勝手ではないはず。そうではなく、神さまとの自由。あらゆる隔てが取り除かれて、自由に神さまに近づくことを可能ならしめるものです。だから、そこに賛美が生まれる。その自由を、解放に基づく神さまとの自由を、イエスさまは何よりも私たちに与えたいと欲してほられるのです。この安息日ごとに。

例え、それが正しい動機であったとしても、闇雲に安息日を強要するような偽善に私たちは注意したいと思う。しかし、それは、私たちがいうところの「自由」に属することなのかと、今一度吟味したいと思うのです。そして、願わくは、本来あるべき神さまとの交わりを回復なさしめる、真の解放と自由を与える安息日を目指す者でありたい。そう思います。