聖書箇所:ルカによる福音書16章1~13節
今朝の福音書の日課は、率直に言いまして、なかなか理解が難しい箇所だと思います。私自身、ずっと悩んできました。ある専門家は今日のところを、四福音書中最も難解な箇所だ、と言っていますので、それも無理からぬことなのかもしれません。では、なぜそんなに難しいのか。実は、ここに出てきます譬え話自体は、決して難しいものではありません。むしろ、滑稽とも言える内容で、楽しく読めてしまうのかもしれない。
しかし、その流れが理解しづらい。どうして、そのような展開になるのか。特に、この箇所の結論とも言うべき13節の言葉「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」、この「神と富とに仕えることはできない」との言葉とどう結びついていくのか、ということが分からなくなってしまうのではないか、そう思うのです。
先ほども言いましたように、この譬え話も単独ではよく分かるし、小さなことに忠実でなければ大きなことにも忠実にはなれない、ということも良く分かる。最後の結論だって、実行性という意味では難しさも感じますが、言わんとすることは分からなくもない。ですから、これらは分けて考えるべきではないか、とも言われたりします。確かに、そうすれば少しはスッキリするのかもしれませんが、しかし、それだけがこの難しさの原因でしょうか。つまり、非常識…、私たちの「道理」「当たり前」には合わない、ことから生じる難しさ、です。イエスさまが、こんな「不正な管理人」を褒め、むしろ、見習うべきだ、などと果たして本当に話されるだろうか、ということです。
考えてみれば、先週の日課である「『見失った羊』のたとえ」話しもそうでした。迷子になった、見失われたたった一匹の羊を探し出すために、他の99匹に不利益が及んでも良いのだろうか。普通に考えれば、この譬え話の方が非常識なのかもしれない。しかし、ここが重要なのです。聖書が語る神さまの常識と私たちの常識とは、必ずしも一致しないからです。先週の日課に登場してきたファリサイ派や律法学者たちは、当時においては、最も常識人だったと言えるでしょう。彼らは律法を守る正しい人こそが救いに与るのだ、と考えていたからです。これ自体、別に変な考えではないでしょう。
むしろ、今日においても通じる常識なのかもしれない。しかし、イエスさまはそんな常識にメスを入れられたのです。「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」、そう言われたのです。
今日の箇所では、話の対象が弟子たちにまで広げられていたことが分かります。
1節「イエスは、弟子たちにも次のように言われた」。そして、あの「不正な管理人」の譬え話が語られました。ここでは、ひょっとして、弟子たちの常識にもメスを入れようとされたのかもしれません。
実は、この箇所は、譬え話本体とその解釈とが、一体どこからどこまでなのかがはっきりとしないようなのです。そこで、大きく二つの説に分かれるようです。
一つは、「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」を結論として、終末(世の終わり)が差し迫っている中、弟子である光の子らもこの世の子らのように機敏に対処する賢さを身につけるべき、と教えているのだ。もう一つは、「不正にまみれた富で友達を作りなさい」を結論として、「不正にまみれた富」̶̶ この言い方を聞くと、 なんだかギョッとしてしまいますが(これが理解を難しくする一つの要因になっている)、これは、単に「この世の富」を言い表す表現方法に過ぎない、と言われています̶̶ を用いてでも、友達を作って自分を迎え入れてくれる場所を確保することが大切だ、ということを教えているのだ、と言います。
先ほどは、今日の箇所は弟子たちの常識にもチャレンジするものではなかったか、と言いました。確かに、彼ら弟子たちもイエスさまと一緒に、徴税人や罪人たちと一緒に食事の席にはついていたでしょう。しかし、果たして彼らはイエスさまと同様にこの罪人たちらを心から仲間として迎え入れていたのだろうか。ファリサイ派たちとはまた違った特権意識を持って、どこか彼らを見下すようなことはなかっただろうか。そんな弟子たちの様子も見ながら、イエスさまはこの話をされたのではなかったか、そう思うのです。なぜなら、この不正な管理人と彼ら徴税人・罪人たちとが重なるからです。彼らは確かに、正しい人たちとは言えないでしょう。厳しい言い方になりますが、罪人と言われても仕方がない人たちです。しかし、彼らはなりふり構わずに救いを求めたのです。イエスさまが褒められたのは、この「不正な管理人」の抜け目ないやり方、その賢さです。
自分が助かるためには、救われるためには、なんだって利用する、なんだってやってやる、たとえ悪の上塗りとなろうとも。そんな真剣さ。そんなひたむきさ。しかし、光の子である弟子たちは、特権に甘えて、真剣さを忘れて、当たり障りのない良い子になり果てていたのかも知れない。自分もまた羊飼いに必死に探し出された一匹の羊であることに思いが至らなくなっていたのかも知れない。他人事として救いに対する貪欲さを失っていたのかも知れない。それは、果たして、恵みを受けた者の賢さ、と言えるのだろうか、と問われるのです。
あるいは、この世の富の使い方です。ある方は、ここで出てくる友達とは神さまのことだ、と言われます。神さまを友とするために、この世の富を用いるのだ。つまり、神さまが望まれるような富の使い方をするのだ、と言われる。確かに、その通りだと思います。しかし、単純に友を得るためにこの世の富を用いる、と考えても良いのではないか、とも思う。そうです。私たちには友を得る必要がある。特権的になるということは、部外者を入れたがらなくなる、ということです。現に、弟子たちは、自分達の仲間に加わろうとしない者たちを拒絶しようとした、と聖書には記されています。イエスさまは、そのことを戒められました。なりふり構わないほどに、救いに関して真剣なのか。特権的なものに甘んじてはいないだろうか。友を得るために、富を用いることをはじめとして、あらゆる手を用いているだろうか。現代の光の子である私たちにも、問われていることでしょう。
そして、こうも語られている。「あなたがたは、神と富とに仕えることができない」と。それは、両立しない、と言われるのです。どちらかを重んじ、どちらかを軽んじることになる、と。それは、両者が相入れないからです。後者、富は、人の欲望をひたすら助長する世界。神さまの世界とは、それとは全く異なる世界だからです。
今日の旧約聖書の日課は、まさにそんなマモン(富)の影響力・力を物語るものでした。なかなか開きにくい、普段読み慣れない12小預言書の一つ、アモス書です。ここに出てきます商人は、安息日すら待てない、という。もう商売がしたくてしたくて仕方がないのです。一日休めば大損だ、とばかりに。そんな稼ぎたい一心の商人は、段々と不正にも手を染めていくようになります。最初は、升や分銅を誤魔化すところから始まり、段々とやってはいけない商売・悪事にまで手を伸ばすようになる。今でも時々、マスコミ等で騒がれているものです。それが、マモン・富の力、影響力。
今年は、今のところ非常に少ないですが、それでも何件かのご葬儀がありました。その一つが、義理の父のものでした。つまり、妻の父です。父は長年、教会の長老を務めていきました。また、ギデオン協会の働きにも長年携わってきました。書道家でもありました。そんな父ですので、もっと多くの人々に知らせた方が良いのではないか、と内心思いましたが、コロナ禍ということもあり、家族葬ということで、急遽十数名の教会の方々が集ってくださいましたが、非常に小さなご葬儀となりました。そんな父の棺の中には、何も入ってはいませんでした。いいえ、たとえ、生前の父の功績を讃える数多くのものが棺の中に納められたとしても、それらは父の身体と同じように、灰に帰するだけでしょう。父は私たちに多くのものを残してくれましたが、それらは持っていけるものではないからです。
父は、この世的に言えば、決して恵まれた方ではないのかも知れません。苦労も多かったと思います。小さな都営住宅に住んでいました。わずかな年金で慎ましい生活をしていました。しかし、ご葬儀の後、次から次へと今までの感謝の声が寄せられたそうです。教会でお世話になった人々。ギデオンで一緒に活躍した人々。書道教室の教え子たち…。確かに、金銭的には恵まれなかったかも知れませんが、私たちは、父が神さまに従い続けてきたことを知っています。そして、多くの恵みを頂いてきたことを。多くの人々に何かを刻んできたことを。そして、天の父なる神さまに安心してお任せすることができることを、私たちは知っている。
ヨブは、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」と言いました。その通りです。私たちは、何一つ持っていくことはできないのです。裸で、全てのものを手放して、帰るしかない。もちろん、損得勘定ではありませんが、しかし、どちらが本当に私たちにとって得になるのでしょうか。神さまでしょうか。それとも、マモン・富でしょうか。
何度もお話ししていることですが、富自体が悪のではありません。そうではなくて、神さまと富とを同列には置けない、ということです。同じように、仕えることはできない、ということです。なぜなら、私たちは必ず、どちらかを軽んじてしまうことになるからです。そして、もし富の方を重んじるならば、その欲望は際限なく私たちを飲み込み、取り返しのつかないことにもなりかねないからです。だから、神さまに仕える。神さまに仕えながら、与えられた富の使い方を考える。
この世の子らのように、むしろ賢く用いることさえも必要なのかも知れない。また、友を得るために用いることも。いずれにしても、まず神さまを見上げていれば、間違うことはないでしょう。いいえ、たとえ間違ってしまったとしても、正してくださるに違いない。それが、最終的には、私たちに途方もない富̶̶単に金銀ではなく̶̶をもたらしてくれるのではないか、と思うのです。