ヨハネによる福音書1章29~42節
本日は、顕現後第二主日となります。つまり、先週の主の洗礼主日から、いわゆる「顕現節」がはじまった、ということです。
この「顕現」とは、公に姿を現す、ということです。
ですので、イエスさまが最も早い段階で公に姿を現されたのが、あの東方の博士たちがイエスさまを訪ねた時だったと考えられますので、いわゆる顕現日には、そのことが記されていますマタイによる福音書の2章が取り上げられていました。1月6日です。
しかし、この洗礼の出来事も、イエスさまが公にご自身を現された出来事だと受け止められていますので、̶̶以前親しんできた日 課では、1月6日の直後の日曜日を「顕現主日」とし(聖書箇所もマタイ2章1節以下が日課)、そこから顕現節がはじまるようになっていました̶̶この洗礼日から顕現節がは じまるようにしたのではないか、と私自身は思っています。実は、この「顕現日」、エピファニーと言いますが、元々は東方教会の祝祭だったようで、イエスさまの洗礼を記念するものだったようなのです。
そういう意味では、本来の意図に戻った、と言えるのかもしれません。
ところで、今朝の日課、ヨハネ福音書1章29節以下を読まれて、先週と似ている、と思われた方も多いのではないでしょうか。先ほども言いましたように、先週の日課は、イエスさまの洗礼の出来事を取り上げたマタイ3章13節以下でしたが、聖霊が鳩のように天から降ったというところなど、非常によく似ていると思います。しかし、決定的に違っているところがあるのです。それは、このヨハネ福音書ではイエスさまは洗礼を受けておられない、ということです。
ある方は、直接的にはイエスさまが洗礼を受けられたとは記されていないが、この記述(マタイ福音書に似た)からもイエスさまが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたことは明らかだ、と言っておられますが、少なくともこのヨハネ福音書が、イエスさまが洗礼を受けられたということを明確には記していないということは大きなことだと思うのです。言い方を変えますと、この洗礼者ヨハネがイエスさまに洗礼を授けた人とは記されていない、ということです。
皆さんの中にもそういった思いのある方もおられるかも知れませんが、時に洗礼を受けた人・事実よりも◯◯先生から洗礼を授かった、という意識の方が強く出てしまうことがありますが、少なくともここでは洗礼者ヨハネはイエスさまの洗礼者としては描かれていない、ということです。見方によっては上下関係・師弟関係にもなり得るようなことを極力避けている。少しの誤解も与えないようにしている。そんなふうにも思える。では、このヨハネ福音書では、洗礼者ヨハネのことをどのように描こうとしているのだろうか。
「証しする者」です。あくまでもイエスさまを「証しする者」として、です。既に、このヨハネ福音書では洗礼者ヨハネのことをこのようにも記していたからです。1章6節、「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」。
この「光」とは、もちろんイエスさまのことです。光であるイエスさまを証しするために洗礼者ヨハネは来た、神さまから遣わされた、と言います。そのヨハネが、今日の日課では、イエスさまのことをこのように証ししました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と。非常に印象深い言葉ですし、イエスさまの本来のお姿を的確に捉えた言葉だとも思います。そういう意味では、ヨハネ福音書が語る洗礼者ヨハネの姿は、今まで見てきた、例えばマタイ福音書から見てきた、心揺れる……自分が待っていたメシアとは本当にイエスさまのことなのか、それとも別の誰かを待たなければならないのか、と心揺れる姿とは、非常に印象が違っているように思います。ともかく、ヨハネ福音書が描く洗礼者ヨハネは、イエスさまのことを「世の罪を取り除く神の小羊だ」と証ししたのでした。
では、そのように証しした洗礼者ヨハネは、イエスさまのことをどのように思い描いていたのか。実は、必ずしもそれらは明確ではないようです。ここでヨハネが語っている
「神の小羊」という姿、後の36節で自分の弟子たちに証言する中でも語られているものですが、この「神の小羊」という表現が他にはほとんど見られないからです。ですから、いろんなことが言われているようです。例えば、過越の祭りの時に屠られる小羊を表すのではないか、とか、あるいはイザヤ書53章に記されている物言わず連れていかれる小羊を指すのではないか、また、アブラハムが息子イサクを犠牲として捧げようとした時に神さまが用意して下さった身代わりの小羊を意味するのではないか、ヨハネの黙示録に登場する勝利の小羊を示しているのではないか、等々の意見があるようですが、私はやはりレビ記などに記されています犠牲の小羊を思い浮かべてしまいます。これも全く間違った的外れの見解ではないようですが、どれも決定打ではないようです。
先ほど、レビ記と言いました。創世記、出エジプト記と頑張って読んできても、レビ記で頓挫してしまうという、あのレビ記です。御多分に洩れず、私にとってもそうでした。頑張って読みはしましたが、全くもってつまらない、と思わせられたものです。そんなレビ記、つまらない祭儀規定が延々と続いていくようなレビ記ですが、神学校のある授業を受けて、捉え方が全く違ったものとなったのです。最初の神学校、聖契神学校というところでしたが、五書研究(モーセ五書と言われるもの)という科目があったのですが、その年はレビ記が題材として取り上げられていました。1章から、生臭い動物犠牲の話が延々と続きます。ちっとも面白くない。むしろ、グロテスクで気味が悪いくらいです。全く興味がわかない。しかし、その授業の中で言われたのは、イエスさまの十字架と無関係ではない、ということでした。むしろ、大いに関係するのだ、と。
先ほどは、洗礼者ヨハネはイエスさまのことを「神の小羊」だと証しした、と言いました。このレビ記に記されています動物犠牲の中にも、「小羊」では必ずしもありませんが、「羊」が登場してまいります。例えば、1章10節です。「羊または山羊を焼き尽くす捧げ物とする場合には」とあります。この動物犠牲を理解するために、ちょっと前の箇所を読んでみたいと思います。最初に出てくるのは「牛」です。2節にこうあるからです。「あなたたちのうちのだれかが、家畜の捧げ物を主にささげるときは、牛、または羊を捧げ物としなさい」とあります。時間の関係もあり、全部は読みません。重要と思われるところだけを読みたいと思います。3節「奉納者は主に受け入れられるよう、臨在の幕屋の入り口にそれを引いて行き、手を捧げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる」。
これを、先ほども言った「羊」にも同じようにします。続けて、このようにしていきます。「奉納者がそれを主の御前にある祭壇の北側で屠ると、アロンの子らである祭司たちは血を祭壇の四つの側面に注ぎかける。奉納者がその体を各部に分割すると、祭司は分割した各部を、頭と脂肪と共に、祭壇の燃えている薪の上に置く。奉納者が内臓と四肢を水で洗うと、祭司はその全部をささげ、祭壇で燃やして煙にする。これが焼き尽くす捧げ物であり、燃やして主にささげる宥めの香りである」。
気分を悪くされた方がおられたら申し訳ないと思いますが、これが動物犠牲です。今紹介したのは「全焼の生贄」と言われるものですが、その他にも「和解の生贄」「贖罪の生贄」などがありますが、どれも共通しているところがあります。それは、捧げようとする動物の頭の上に自らの手を置く、ということです。これを必ずする。
これは何を意味するかというと、私の身代わりとなる、ということです。私が犠牲の動物の頭に手を置くことによって、もはや羊は羊ではなく、浅野直樹その人になる、ということです。そして、先ほど読んだ通り、そうしないと、「その人の罪を贖う儀式を行うもの」としては受け入れられない、ということです。そして、その身代わりとなった動物・羊を自らの手で屠る、殺すのです。祭司がするのではない。レビ人がするのではない。犠牲として捧げようとする人自身が手を下す。そういう意味では、この動物犠牲は重いのです。決して身軽な、簡単な儀式ではない。
なぜなら、罪の支払う報酬は死だからです。罪を償うためには、命をもって償わなければならない。それを、聖書は、神さまは要求する。後に、これらは儀式化してしまい、イエスさまも嘆かれるほどの強盗の巣にしてしまいましたが、本来は、罪の贖いとは、これほど重く、重要なことなのだ、ということを悟らせるためにあったのだと思うのです。それを、レビ記の学びで知った。
洗礼者ヨハネは、イエスさまのことを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と証言しました。その「神の小羊」とレビ記の動物犠牲とが無縁でないとすれば、どうだろうか。私たちはあまりに簡単に、イエスさまは私たちの身代わりに十字架について下さった、と言ってしまってはいないだろうか。人任せに命を奪うことから遠ざかって、動物を食することにあまりに慣れてしまって、命の重さを忘れてしまったように、十字架の重さも忘れてしまってはいないだろうか。動物の命だって重いのです。目の前の動物の命を取ることなど簡単ではないし、簡単に奪い取ってはならないものです。
彼らだって生きている。小羊の命だって重い。なのに、小羊だって重いのに、神の子であるイエスさまが私たちのために、神の小羊となって下さったということは、どれほど重いことだろうか。私たちの身代わりに、私たちの全ての罪を背負い、殺されていく小羊となってくださるとは。しかも、イヤイヤでも渋々でもなく、それこそが神さまの御心として、ご自身の栄光として、受け止めてくださるとは。十字架は重い。しかし、その重さは私たちを押しつぶすための重さではなくて、むしろ私たちの重荷を打ち破るための、重荷から解放するための、救いの重さ、神さまの恵みの、温かさの、愛の重さ、なのです。
今日はもう話せませんが、ヨハネ福音書は、その洗礼者ヨハネの証言によって、イエスさまの弟子たちが生まれていったとも記しています。ヨハネは、ただただイエスさまを証しすることに徹した。十字架の恵みの重さを証しすることに徹した。
それは、私たちも学ぶべきことではないでしょうか。