三島由紀夫 『金閣寺』
感想ノートより「吃り」に生まれついた「私」(溝口)は舞鶴東北の岬に近い寺の住職の子として育った。自分が「障碍者」であるという劣等感は彼をして他人を近づかせない。自分は他人から理解され難い人間だと強く思い込んでいる。その彼が幼い時から父に言い聞かされている事は、「金閣ほど美しいものは地上にない。」という事であった。父の亡くなった後、遺言によって彼は金閣寺の徒弟となった。幼少から思い描いていた金閣寺の幻影の美は彼の眼前にあった。
時に太平洋戦争の戦局は悪化し、彼は金閣寺が空襲によって炎上するのを想像するようになる。自分の内部に絶対化された金閣寺は消滅する事はあり得ないが、実際の金閣寺は、簡単に消滅する運命にある。それを思った時、彼の内部の金閣寺は、ますます輝く。しかし、戦争は金閣寺を焼く事なく終わる。彼が期待した戦局は、ついに起こらなかった。金閣寺は相変わらず未来永劫、美の永遠性を誇って彼の眼前にあった。彼の内部だけが崩壊し続けるのであった。
彼は老師の勧めで大谷大学に入って、そこで「内翻足」の柏木を知る。柏木は「障碍者」としての自分を意識し、「不安の皆無」から独創的な生き方、劣等感から逃れている。溝口はそこに彼の実際家を見る。崩壊しつづける彼は、金閣寺住職の後継者なる望みもなく、流浪の旅に出、その途中で突然、金閣寺は焼かねばならぬという想念にかられる。金閣寺を焼くことにより『私の内界と外界の間の錆びついた鍵がみごとにあくのだ。内界と外界は吹き抜けになり、風はそこを自在に吹きかようようになるのだ』と、彼は幸福に充たされている。
<感想ノートより>
(A)行動の美学について三島由紀夫は深く掘り下げて考えている。美の重要性を認識するあまり、それの支配に人間が左右される。金閣寺を焼かなければならないという結論に行く。
(B)人間は誰だってコンプレックスを持って生きている。それとどう共存して生きていくかがその人の生き方を決めるだろう。コンプレックスに圧倒されてしまった時、どう生きればいいか。流麗な文章の裏に人間の悲しさが見える。
(97年 7月)