聖書箇所:マタイによる福音書5章13~20節
皆さんは今、この聖餐卓の上のロウソクの光が見えるでしょうか。
現代人の私たちの周りには大きな光が溢れています。日中はもちろんのこと、夜になっても光が溢れており、こんなロウソクの小さな光など役に立たない程です。しかし、いったん大地震などが起こって、一斉停電で暗闇の中に閉じ込められてしまうと、このたった一本の小さなロウソクから溢れる光によって、私たちはどれだけ励まされ、力づけられ、心おだやかにさせられることか。こんな時に、私たちは改めて「光」の存在の意味・意義を、覚え直すのかもしれません。
今日の福音書の日課は、「あなたがたは地の塩である。」、「あなたがたは世の光である。」という非常に有名なみ言葉と、イエスさまの律法理解について記されています非常に重要な箇所がセットになっています内容盛りだくさんの箇所ですが、総会礼拝ということで、いつも以上に時間が限られていますので、今回は「光」についてだけ、少し考えてみたいと思っています。
イエスさまは、弟子たちに、またイエスさまに従ってきた群集に向かって、つまり、私たちに向かって「あなたがたは世の光である。」と言われました。そうです。私たちは「世の光」なのです。そう言われると、賛否はともかく、なんとなく「塩」と言われるよりはイメージがつきやすいとは思いますが、では、そんな「光」とは一体何か、と言われればどうでしょうか。はっきりと答えられるでしょうか。
今日の旧約の日課であるイザヤ書では、このように記されていました。イザヤ58章6節から、「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて 虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え さまよう貧しい人を家に招き入れ 裸の人に会えば衣を着せかけ 同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で あなたの傷は速やかにいやされる。」。ここでの「光」とは、悪の束縛を断ち切り、虐げられている人々を解放し、飢えた人、貧しい人、困難な目に遭っている人々を助ける、そういった具体的なイメージが語られています。そうです。この「光」のイメージとして最初に思う浮かぶのはイエスさまです。イエス・キリストです。
そういえば、ヨハネ福音書は最初っからイエスさまを「光」として描いていました。1章3節から、「万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。」、今回は聖書協会共同訳で読ませていただきましたが、そのように記されていました。
そもそも、何週間か前に、イエスさまの宣教のはじまりの時にもお話ししましたように、マタイ自身イエスさまの出現をイザヤ書の実現と見ていた訳です。「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」。そういう意味でも、ここでイエスさまが語られた「あなたがたは世の光である」とのお言葉と無縁ではないはずです。むしろ、この「光」である、いいえ、「光」そのものであられるイエスさま抜きでは、私たちに語られた「世の光」といった事柄も、決して理解できないでしょうし、むしろ、誤解を生むような捉え方にならないとも限らないのです。
イエスさまが語られたように、私たちはすでに「世の光」なのです。皆さんも繰り返しお聞きになられて来られたでしょうが、これから「世の光」になることを求められているのでも、努力目標でもないのです。すでに、「世の光」なのです。しかし、その私たちが輝かせるべき「光」とは、私たち自身のものではないはずです。私たちの努力、人格、能力などから生み出されるような光ではない。そうではなくて、イエスさまとの繋がりの中でもたらされる光です。イエスさまを信じる。イエスさまと共に生きる。イエスさまから学ぶ・御言葉を聞く。イエスさまが私たちの内に住んでくださる。だからこその光。だからこその輝き。ですから、私たちが「世の光」になるのは、変な喩えかもしれませんが、聖火ランナーが前走者から火を、光を受け取るように、あるいは太陽に照らされた月の光のように、イエスさまの光を受けて、イエスさまの光を反射して輝かせる、そんな「世の光」ではないか、と思うのです。
繰り返しますが、私たちがどう自己評価しようと、否定しようと、イエスさまは今現在、すでに、「あなたがたは世の光である。」と言ってくださっているのです。そのように、イエスさまご自身が、私たちを輝かせてくださっているのです。しかし、注意しなければいけないことは、そんな「光」を升の下に隠してはいないか、ということです。光は光自身が輝くのです。むしろ、その光を消すことなどできないはず。しかし、それを隠して、輝かないようにすることは出来てしまうかもしれない。それが、問われている。
私には繰り返し繰り返し立ち戻らされるみ言葉があります。
テモテへの手紙1 1章1
5節以下です。「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」。自らの罪に悩み、ただ恵みによって救われたことを心から喜んで、この恵みの手本となることを心に決めたのに、いつの間にかその恵みを忘れてしまって、人を能力や力で測ってしまったり、あまつさえ人を裁く心さえも持ってしまう。そのことに気付かされては、反省させられ、立ち戻らせてくれる大切なみ言葉。私ふうの理解でいえば、そのように恵みを忘れてしまうことが、私の升になっているのかもしれません。
ともかく、頑張りなさい、しっかりしなさい、といったみ言葉ではないでしょう。無理矢理にでも、ない燈心に火をつける必要などない。そうではなくて、光はすでにあるのです。私たちは、その光とすでに出会っている。そして、この光自身が、私たちを放ってはおかれないはずです。私たちが意図的に隠しさえしなければ、私たちの内にあるイエスさまの光は輝くのです。それは、確かに、小さな光かもしれません。世の中のいろんな光に負けてしまうような、価値のない、意味がないとみなされてしまうようなちっぽけな光かもしれない。教会に対する視線が厳しくなっている昨今なら、なおさらです。しかし、そんなちっぽけな光でも、闇の中では輝くのです。
人を元気づけ、励まし、温かい心にする。もともと光には、そんな力がある。それで、いいではないか。目が眩むほどの強烈なスポットライトでなくても良いではないか。そんな小さな光でも、イエスさまの光ならば、結局は神さまをあがめる光にもなるのだと、そう思います。