聖書箇所:ヨハネによる福音書1章1~17節
今日の日課には、「聖書の中の聖書」とも、「小聖書」とも言われていますヨハネ福音書3章16節が含まれていました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」。なるほど、先ほどのような評価がされるように、聖書を、あるいは福音を凝縮したような素晴らしい内容の箇所です。皆さんの中にも、「愛誦聖句」とされておられる方も多いのではないでしょうか。確かに、そう。しかし、では、ただの素晴らしいみ言葉、ということだけで、果たして本当に良いのか。ただ赤線が引かれた聖句ということだけで満足して良いのか、といえば、もちろん、そうではないでしょう。それを、このみ言葉を「信じる」ことが大切なはずです。信じ受け入れることが必要になる。
今朝読まれました旧約の日課も、使徒書の日課も、共に「アブラハム」(旧約ではまだ
「アブラム」となっていましたが)が取り上げられていました。ご存知のように、このアブラハムはイスラエル民族の始祖であると同時に、「信仰の父」と称され尊敬されている人物です。そして、パウロは、そんな信仰の人であったアブラハムを引き合いにして、自身の福音理解、つまり、「信仰による義」(人は信仰によって救われるのだ、ということ)を述べていこうとしている訳です。その中で、アブラハムの信仰の真骨頂とも思える興味深いことが記されていました。ローマ4章17節です。「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。」。これは、おそらく、最愛の息子イサクを犠牲として捧げた、といった創世記の出来事から言われていることだと思います。ともかく、神さまに不可能なことは何一つない、といった信仰ということでしょう。それが、私たちも見習うべき信仰だとパウロは見ている。
それに対して、今日の福音書の日課に登場してきますニコデモは、信じ切ることのできない人の代表といっても良いと思うのです。ある意味、私たちの代表でもある。このニコデモについては、「ファリサイ派に属する議員(これは、サンヘドリンという最高法院の議員ということのようですが)」と記されています。今で言えば国会議員のような、それなりの立場を持った人だった、ということでしょう。だから、彼は「夜」イエスさまを訪ねたのかもしれません。いわゆる、立場上、お忍びで、ということです。
しかし、多く聖書に登場してきますファリサイ派、議員たちとは違って、イエスさまに対しては非常に好意的なようにも思います。それは、直前にこう記されていることにも関係している、と指摘されています。ヨハネ2章23節です。「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。」とあるからです。つまり、このニコデモも、イエスさまがなさったしるしを見て信じた一人ではなかったか、というのです。そういう意味では、先ほども言いましたように、ニコデモは非常に好意的であったのでしょう。
そんな立場であったにも関わらず、お忍びで、夜にイエスさまを訪ねて話を聞こうとするくらいに、です。そういう意味では、まさに彼にも信仰があった、と言えるのかもしれません。しかし、重要なのは、いいえ、非常に興味深いのは、そのニコデモがイエスさまが語られた言葉を、一切受け付けなかった、ということです。イエスさまに興味を抱き、自ら進んで教えを乞おうとして来たはずなのに、その全てを拒絶してしまっているニコデモの姿がそこにある。そして、それもまた、私たちの姿に重なるのではないか。
実は、私はこのニコデモに同情的でした。「でした」と過去形を使ったくらいですから、かつては、ということです。なぜなら、あまりにもイエスさまのお言葉が突拍子もないように思えていたからです。
皆さんは、このヨハネ福音書にどんな印象をお持ちでしょうか。面白い、興味深い、難しい…。私は正直、複雑な思いを抱いていたのです。それこそ、他の福音書に比べても圧倒的に赤線を引くようなみ言葉(フレーズ)は多いのです。このヨハネ福音書の3章16節にももちろん赤線が引いてあります。しかし、それが文脈になると途端に難しくなる。特に、対話の場面になると、どうしてこんなやり取りになるのだろうと頭を抱えてしまうほどです。牧師になりまして、説教の準備をするときには、ほとほと困っていました。
ニコデモにも言い分があるでしょう。いきなり、こんなことを言われても、と思ったのかもしれません。そうだと思います。もし、皆さんが牧師に話を聞きに来て、こんなやりとりをされたら、どうでしょうか。もう二度とこの教会には来ない、と思われるかもしれません。それほどに、イエスさまのお言葉は突拍子もないし、私たちの期待とは随分と食い違っているものなのです。しかし、実は、それこそが重要なのではないでしょうか。信仰とは、実に、そういったものだからです。
私たちを超えた事柄を信じる。それが、信仰には求められている。イエスさまもニコデモにこのように語られました。12節「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。」と。そうです。イエスさまが語られることは、神さまのことです。天上のことです。私たちの理解を遥かに超えた事柄です。私たちの延長線上にはない事柄。だから、私たちには突拍子もないことのように聞こえるし、縁遠いことのように聞こえるし、意味があるのかないのか分からないような言葉に聞こえるし、非現実的としか聞き取れないものでもあるのです。
信仰とは、私たちが理解し、納得し、吟味し、ということでは必ずしもないでしょう。もちろん、それらを全否定するつもりもないし、盲目的なものが良いとも思わない。ただしかし、それらに留まっているだけでは、見えてこない景色、真実があるものです。あのニコデモのように。信仰とは、私たちを超えた事柄の中にある。天上のことだからです。だから、信頼なのです。神さまを信じるという信仰とは、神さまを信頼することなのです。その信頼感を養うことこそ、私たちの信仰生活でもある。
現在、毎回6、7人の小さな集まりですが、zoomでの「聖書の学び・祈り会」をしています。その中で、メンバーから出た要望でもありましたので、創世記の学びをしていますが、私の任期中という制限がありますので、随分と乱暴な端折り方をしながらの学びになってしまい申し訳なくも思っていますが、とりあえず概観を見て、その学びもあと1回を残すのみとなりました。その中で、今日登場してきたアブラハムも見ていきましたし、イサクは直接的には取り上げませんでしたが、ヤコブも、その12人の子どもたち、つまり、のちの12部族の族長となっていく人たちの中でも特にヨセフを取り上げて来ました。
いずれも、イスラエルの歴史、信仰の歴史を見る上で重要な人物たちです。しかし、率直に言って、いわゆる模範的な信仰者とは言えないような人物たちでした。アブラハムは確かに「信仰の父」と呼ばれるだけの器ではありましたが、それでも、神さまの約束を待てず、人間的な策略でイシュマエルをもうけましたし、自分の身可愛さに妻のサラを妹と偽ったり、神さまの約束に対して笑ったりと人間らしい姿も持つ人でした。ヤコブは兄から長子の権利を奪ったり、祝福を騙し取ったりと、これまた一癖も二癖もある人物でしたし、ヨセフも父の溺愛のせいか傲慢に育ち、兄たちへの復讐に燃える面もありました。何が言いたいのか。偉大だとは言え、人とはそういうものだ、ということです。そんな彼らが信仰的な面においても、人間的な面においても鍛えられていくのが、創世記の物語でもあるのだと思うのです。
確かに、信仰とは神さまからの賜物でしかありません。恵みの賜物。私たち自身の力や努力で勝ち取れるようなものではない。そうです。しかし、と同時に、なおも「信じるように」と招かれているものでもあると思うのです。先ほど例として出させていただいたイスラエルの族長たちの姿からも、そのことを教えられる。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。このみ言葉を信じるのです。この突拍子もないみ言葉を、約束を、信じるのです。自分を超えて、理解を超えて、納得を超えて、この約束をしてくださっているのが、不可能を可能とする、無から有を生み出すことのおできになる神なのだ、ということを信じるのです。信じるように招かれている。そうでないと、私たちは、この自分たちから抜け出せない。
あのニコデモのように。そんなことはありえないことだ、とうずくまるしかなくなる。そうでないと、イエスさまがここで示してくださっている神さまの愛にではなく、相変わらず自分次第ということに、因果応報という大原則に捕らわれたままになってしまう。せっかくのこの素晴らしいみ言葉も、絵に描いた餅、赤線を引いただけの言葉、私自身においても、この世界においても、何ら意味を持たない言葉になってしまう。それで、いいのだろうか。
もう一度、先ほどの言葉を見てください。神さまは「世を愛された」と言われます。神さまが愛されたのは「世」です。ウクライナ問題をはじめ、私たちは世界中で起こっている様々な情報に接するとき、まさに「世」に対して失望するしかないような思いに駆られてしまいます。しかし、神さまだけは諦めていない。諦められないのです。だから、御子を送った。この世界に。この世界を救うために。罪にまみれた、この罪人である私たちでさえも心痛め、うんざりしてしまうような世を救うことに必死になられている。そんな方が、そんな神さまが、まだこの世界にはいてくださる。それは、この世界にどんな意味をもたらすのでしょうか。
神さまは、御子イエス・キリストを与えるほどに、私たちのために十字架につけるほどに、この私たちを、信仰弱き、罪深き私たちを、うんざりするような世・世界を愛してくださった。救うことを決心してくださった。私たちは、それを信じる。信じて生きる。そんな思いと敵対するようなものと戦いながら、信仰を養うことに注力しながら、自分たちができることで、小さな業で、隣人に仕えることで、この世を愛された神さまのご栄光を表していく。それが、私たちの生き方。そのことを、この四旬節にもう一度、問い直していきたい、そう願っております。