【説教・音声版】2023年3月12日(日)10:30 四旬節第3主日 説 教「 イエスとの出会い 」浅野 直樹 牧師



2023年3月12日 四旬節第三主日礼拝説教(むさしの教会)

聖書箇所:ヨハネによる福音書4章5~42節説教題:「イエスとの出会い」

今朝の福音書の日課も、よく知られた「サマリアの女」とも呼ばれる、イエスさまとサマリアの女性との対話の物語です。

皆さんはこの箇所について、どんな印象を持たれているでしょうか。私自身は、非常に興味深い「出会い」の物語だと思っています。今日は、そんな視点から少しお話ししていきたいと思っています。

「出会いは突然」といった歌詞もありましたが、このサマリアの女性とイエスさまとの出会いも、突然だったでしょう。予期…、あるいは意図していた訳ではなかった、ということです。たまたま、そう、たまたまイエスさまはサマリアの町の側を通りかかり、旅の疲れで「ヤコブの井戸」の傍で休んでおられただけです。そのタイミングに、まさに、そのタイミングでこのサマリアの女性は水を汲みにやってきただけ。ほんの数十分のズレで、二人は出会わなかったかも知れません。もちろん、ここにも神さまのご計画が背後にあったのかも知れませんが、彼女・私たちの感覚では、「偶然」としか思えなかったものでしょう。

私たちの人生には、そういった「偶然」がつきものです。少なくとも、その時には…、後に振り返ってみたとき、そこに神さまの介在・ご計画があったことを認めるようになったとしても、その時間の流れの只中にあったときには「偶然」「たまたま」「奇跡」としか思えないような出来事、出会いがある。イエスさまとの出会いも、そうでしょう。もちろん、個々に事情が違うことも承知しています。自ら進んで教会を訪ねた人もいれば、それこそたまたま、誘われて、なんとなく、といった方も少なくない、と思います。しかし、いずれにしても、例え自ら進んでといった人であっても、そのきっかけを作ったのは、ほぼ「偶然」と思えるようなものではなかったか、と思うのです。そんな「偶然」の中で、人生を変えてしまうほどの決定的な出会いもあるのです。

このサマリアの女性は、井戸の傍に佇んでおられるイエスさまを見つけて、躊躇したのかも知れません。会いたくない、関わりたくない、と思ったのかも知れない。されど、この井戸は町から1キロ以上離れたところにあったとも言われていますので、出直すことも躊躇われた。おそらく、相手はユダヤ人らしいし、サマリア人の自分とは関わってこないだろうから、無視を決め込もう、と井戸に向かって行ったのかも知れません。すると、突然声をかけられた。「水を飲ませてください。」と。

私たちは、聖書の中に、イエスさまとの出会いの物語を多く認めることができると思います。弟子の召命物語から、病人の癒し、悪霊の追放など。もちろん、突然イエスさまの方から声をかけられた、といったことも少なくなかったと思いますが、いずれにしても、なんらか関心なり好意なりを持っていたと思うのです。あるいは、自ら進み出ていく群衆もいた。そんな出会いの物語と自分たちの物語とを比べては、あんまりパッとしないな、劇的でもなんでもなく面白みに欠けるな、と忸怩たる思いになられることがあるかも知れません。しかし、大丈夫。先ほどの推測が正しいとすれば、敵意とまではいいませんが、無関心、無視からはじまった出会いもあったということです。

サマリアの女 カール・ハインリッヒ・ブロッホ (1834–1890)


予期していなかった声がけに、このサマリアの女性は面食らいました。二つ主な理由があります。一つは、自分がサマリア人であり、イエスさまがユダヤ人だった、ということです。ご承知のように、両者は歴史的にも犬猿の仲であり、交流を一切持たなかったからです。もう一つは自分が女性であったということ。当時、女性は非常に身分が低くされており、ラビ、いわゆるユダヤ教の教師が女性を相手にすることなど考えられなかったからです。確かに、突然のことに面くらったかも知れませんが、不思議な感覚を味わったのかも知れません。後でも少し触れますが、この女性は多くの男性に嫁ぎ、別れを繰り返し、町でも悪評の高かった人物だったと考えられているからです。ですから、彼女は昼間に水を汲みにきていた。

普通の、一般の人々・女性たちは朝と夕、つまりまだ涼しい時間帯に水を汲みに来ていたと言われています。あるいは、わざわざこんなに遠くの井戸まで来なくても、町の中に井戸なり泉があったのではなかったか、と考えている人もいるようです。つまり、この女性は人に会いたくなかった。イエスさまだけではありません。町の人とも会いたくなかった。後ろ暗さも不満も怒りもあったのかも知れませんが、とにかく、人とはなるべく関わらないように生きてきたと思われるのです。

そんな女性に、イエスさまは声をかけられた。家族以外の者からは、久しぶりにかけられた声だったのかも知れない。しかも、自分を必要としてくれているという声。非難、叱責、陰口、悪口、心を抉るような、傷口に塩を塗り込むような、悪意ある声ではなかった。朗らかな、優しい声だった。

イエスさまの言葉には、何かを動かす、動き出させる力があるのです。このサマリアの女性にとってもそうだったでしょう。なぜなら、その後も会話が続いていることからも明らかだからです。彼女は、もう避けなかった。無視を決め込まなかった。逃げ帰るようなことはしなかった。何気ないたった一言の声で、彼女の心は動き出した。
イエスさまがこの女性に伝えたかったことは、たった一つのことです。「わたしを信じなさい」ということ。わたしを信じさえすれば、命を得るのだ、ということ。

「この水を飲む者はだれでもまた乾く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」。

先週のニコデモの時と同じように、このサマリアの女性とイエスさまとの会話は一見するとチグハグに見えます。なんとも噛み合わない、会話として成立していないようにも思える。しかし、イエスさまは彼女の一番欲していること、本人自身必ずしも自覚していないような、あるいは諦めてしまっているような、深いところにある飢え渇きをご存じだったのです。しかし、それが、会話としては突拍子もないように聞こえてしまうところに、私たち自身の不理解さがある。自分自身についても、神さまの愛についても。

先ほどは、この女性は多くの男性に嫁いだり、別れたりを繰り返し、評判も良くなかったのではないか、と話しました。聖書には5人の男性と結婚し、今現在は別の男性と同棲していたと記されています。そのためでしょうか、私の手元にあるほとんどの註解書・解説書の類は、この女性は不道徳な女性として断罪しているようにも見受けられます。しかし、私自身は、果たしてそうなんだろうか、と思うのです。

ユダヤ教とサマリア教(サマリアの女性が信奉しているもの)とは、確かに随分と違うものですが、モーセ五書を聖典としていたりと共通性もあるものです。ならば、果たして、この女性に離婚の自由はあったのだろうか、と思う。ユダヤ教の律法理解では、女性からは離婚を申し出ることが許されていなかったからです。つまり、この女性の方が男性を取っ替え引っ替え、ということではなくて、男性の方が気に入らない、と離婚したり、死別したり、ということではなかったか。

つまり、この女性は単に男運が悪かった、と言えるのではなかったか、と思うのです。それでも、この女性は男性を頼らざるを得なかった。そうでなければ、生きていけなかった。だから、5人も6人も、ということになってしまった、まことに気の毒な女性のように思えてならないのです。だから、彼女の心は深いところで渇いていた。結局、どの男も自分のことをいいようにあしらい利用はするけれども、本当の意味で、私という存在を必要としてくれていたり、愛してくれる人はいないのだ、と、もうそんなこともとうに諦めてしまっている、と、自分の気持ちを深い深いところに閉じ込めてしまっていたのではなかったか。そう思う。

ある方は、イエスさまは対話の達人だ、と言われます。しかし、私はなかなかそうは思えませんでした。先週も言いましたように、突拍子もないことを言われるイエスさまの対話術は、会話としてはどうなのだ、と思っていたからです。しかし、今は改めて「すごい」と思っています。確かに、イエスさまは必ずしもその人に話を合わせるようなことはしていないのかも知れません。しかし、核心をついていき、その土俵に乗せていくのが、とても巧みです。私などのように、ついつい単なる世間話で終わってしまうのとは大違いです。

この女性も、最初はイエスさまの話についていけませんでした。しかし、イエスさまはそのことを察すると、急に角度を変えて、彼女が関心を示すような話題へと振り向けていかれる。そして、まんまと彼女が食いついていき、イエスさまが導こうとされていた信仰の事柄、霊的な事柄に、自ら関心を示すようにされていきました。「本当に礼拝すべき場所はどこなのでしょう」と。「ユダヤ人たちと私たちサマリア人たちのどちらが信仰的に正しいのでしょう」と。

ここでイエスさまは、新たな礼拝の在り方について語られますが、時間の都合上お話しできません。でも、おそらく、この女性にとっては、このイエスさまの話は難し過ぎたのでしょう。彼女はこう答えます。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます」と。そして、イエスさまは答えられました。「それは、わたしだ」。

この言葉を聞いて、この女性の中に、何かがストンと入ったのではないでしょうか。合点がいったとか、腑に落ちた、といった感じです。この女性は水がめをその場に置いて、町の人々にこれらの出来事を伝えに行ったのでした。会いたくもなかった人々に。身を隠していたかった人々に。触れ合うことも苦痛だった人々に。自分とは住む世界が違うのだと、勝手に線引きをしていた人々に。普通の当たり前の生活を営み、羨ましく思っていた人々に、彼女は、このサマリアの女性は、イエスさまがあのメシアではないか、と伝えていった。そして、この女性の言葉を受けて信じた人々が多くいたのです。しかも、彼ら自身もまたイエスさまと出会い、その出会いによって信じる者となっていった。

これは、一人の女性の出会いの物語です。当然、私たちと違っているところも多々あるでしょう。しかし、それでも、教えられるところ、気付かされるところがあるのではないか。私たちもまた、一人の傷ついた、渇いた人間として、この出会いの物語に連なっているからです。違った出会い方、違ったアプローチ、違った気づき、違った対話・やり取りだったかも知れませんが、それでも、やはり、私たちもまた、不思議と、偶然としか思えない不思議な神さまのご介在の中で、このイエスさまと出会うことができた。そのことを、もう一度新たに噛み締めながら、私たち自身のストーリー(物語)も紡いでいきたい。そう願っています。