むさしの教会は2009年9月20日(日)にホームカミングデーを祝いました。それ
を記念して出版された石居正己牧師による説教集(1966-1968年)の復刻版
です。2010年3月20日に82歳で天の召しを受けられた恩師を記念して。
s.d.g.(大柴記)
1968年 降誕祭
「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた。ひとりの男の子がわれわれに与えられた。」(イザヤ9:2-7)
その名は平和の君ととなえられる。平和ということばは、平安とも訳されて、聖書の基本的な観念のひとつである。それは単に国と国との間に戦いのないことではない。神と人との間、人と人との間、人の心の中、人と自然の間に充実した平安をもち、人が人として本来の姿をかちうることなのである。そして、そのような平安をもたらしてくださる方が私たちに与えられたと告げられる。
平和でなくする力は、政治や外交、経済などの問題だけではない。われわれ自身の考え方、生き方に平安の充実がなくてはならない。一方においては、互いの間の競争がある。正しさや純粋さを求めることの中に、より正しい、より純粋なことを誇って、他を批判してゆこうとする。これが正しいのだというと、さらにもっと正しい、もっと尖鋭なことがほこられる。いざというときはということが、いつでもになり、それに向って行くことにされる。そのうちに、ありのままの人間の姿や望みとのずれが生じてくる。平穏に日常の生活を楽しみたいという気持ちは、押しやられて、無理な姿勢がとられることになる。
他方、そうした進展には無関係に、ひたすら自分の貪欲のままにふるまおうとするむきがでてくる。自分のありのままの望みとは、しかしいったいどういうことなのだろうか。スピードやセックスやといろいろな刺激の中に欲望をみたしていても、当座は充実感を得られたとしても、みたされない空虚感が絶えずつきまとっている。そして、不断の刺激を求めてやがて自分自身の分裂をさえ招く。しかも自分の欲のままに生きようとするとき、必然的にほかの人たちの迷惑をかえりみない。
われわれの平和となり、平和の君としてわれわれに与えられた方は、われわれの問題の根を解決し天よりの平安を贈られる。私たちは、いろいろな面での危機的様相を見ていたとしても、その中にあって、真のクリスマスを祝わなくてはならない。もっと事態が悪くならないか、恐るべきさまが現出するのではないかというような不安によって、クリスマスの喜びをこわしてはならない。天より来る喜びの讃歌に声を合わせてゆかなくてはならない。
しかし、同時に私たちは「人為的」なクリスマスの喜びに耽溺してはならない。今がどんな時代かなど忘れてしまおう。少くともきょうはクリスマスだ。もし私たちが、そういう感じでクリスマスに一とき酔おうとするのであれば、それはもう信仰において迎えるクリスマスではなくて、精神病理学の対象でしかない。
平和の君としてこられた主は、そのみ国を肩に負われる王でありたもう。「まつりごとはその肩にあり」とイザヤは言う。おそらく王たる権威を示す布を肩にかけているという姿を画いたのであったろう。しかし、ルターが説いているように、その支配される国を、主はご自身が背負われるような王でありたもう。けぶれる灯心を消すことなく、傷ついたあしを折ることのない主でありたもう。ひとりひとりをだいじに、そのみ手の中に抱き、いやし、慰め、平安を与えてくださる王として、キリストは来てくださった。さっそうとその支配を顕示されるのではないか、だれをもその平安の中に確しかに保たれる。彼はおとろえず、落胆せず、ついに道を地に確立する。
私たちは決してたしかでない。確信もなく、不安で、困惑しがちである。性急に結果を見たがり、ちょっとしたことで失望する。しかし、神がイエス・キリストによって、最も確かな救いのみ手をのばされる。私たちは自分の生き方に確信がもてず、信仰に自信がない。それでも、神は私たちの外から、私たちに対して、ひとりのみどりごを与えられた。私たちが彼にならって、自分の道をひとりきびしく歩み進むようにとではなく、私たちの罪を赦し、私たちの中に住み、力を与え、道を確立したもう救主として与えられた。
自ら神の下にあることを拒み、神なき世界をつくり出そうとする人間に、神はイエスをつかわし、ご自分と和解なさしめたもう。神との敵対関係だけではなく、人間同志の敵意のへだてを取り除かれた。それだけでなく、預言者はおおかみは小羊と共にやどり、乳のみ子は毒蛇のほらにたわむれる、自然との調和をも、救い主によって与えられることを預言している。どこかにある平和郷の夢ではない。平和をもたらす方によって起される姿なのである。
私たちは、この平和の君のみ手の中に平安を与えられ、私たちもまた「平和をつくり出す人」とされる。完全な、充実した、みちあふれる平安を受ける。私たちの中に、新しい価値と力とが見出されるようになる。金も力も名声も、私たちが第一の関心事とした事どもが色を失って、低い次元におとされてしまう。反対に、私たちが、余分なことのようにあつかい、余力のあるときにだけ少しばかりなすことのように考えていたことが、すなわち神への信仰や隣人への愛や親切などが、宇宙へ向かう巨大なロケットのように私たちのただなかに突き立っていることに気づかせられる。自己主張ではなくて、人々をたてるための権威をもち、み国を肩に背負われる方が来てくださったからである。あのみどりごが、われわれに与えられたからである。
わたしが造ろうとする新しい天と、新しい地が
わたしの前にながくとどまるように、
あなたの子孫と、あなたの名は、
ながくとどまる と主は言われる。
新月ごとに、安息日ごとに
すべての人はわが前に来て礼拝する と主は言われる。
(イザヤ66:22-23)
(降誕祭)