説教 「よみがえりであり命である」 石居正己

むさしの教会は2009年9月20日(日)にホームカミングデーを祝いました。それ
を記念して出版された石居正己牧師による説教集(1966-1968年)の復刻版
です。2010年3月20日に82歳で天の召しを受けられた恩師を記念して。
s.d.g.(大柴記)




三位一体後第16主日

「『ラザロよ、出てきなさい』と呼ばわれた。すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。」(ヨハネ11:19-45)

ヨハネによる福音書11:1-4は、ひとつのまとまった話である。福音書の中でのまとまった話としては最も長いもののひとつである。そして、命のよみがえりという中心的な問題について語られている個所であり、われわれにとっても大きな主題が示されているところだといってよい。

なくなられた東大の宗教学の岸本英夫教授は、がんと戦って10年、手術手術の連続の中で、「手負いじし」のような働きを残された。その間の心の状態を書かれた『死を見つめる心』というという本の中に、これまで人間の歴史にあらわれたいろいろな死生観を、特にそれと関連してだれもが考える不滅の生命のとらえかたについて4つに大別して述べられている。

第一の型は、肉体的生命の存続を願いもとめるものである。秦の始皇帝のように、不老不死の薬を求める型である。私たちが日常、自分はまだ死なないと何の気もなく思いこんでいる状態も、この中に入れられよう。

第二の型は、死後における生命の永存を信じる。天国地獄や、西方浄土の観念などはこれに属する。しかし、文化の発展と共に理想の象徴的表現としてだけ受けとられやすい。

第三の型は、自分の生命をほかのなにかに托する考えである。直接の生命の永存ではなく、自分の関係する何かのものに、精神的ないのちを托するものである。芸術作品や愛児の成長、民族や人類の発展に望みをかける。第四は、現在の生活の中に永遠の生命を感得するという型である。これは深い宗教的体験などに現われる。

さて、聖書が示しているのはいったいどういうことなのであろうか。

主は、ラザロの病気について聞かれたが、「これは死ぬほどのものではない」(11:4)といって、うっちゃっておかれた。そして彼が死ぬままにされたのである。マリヤやマルタが、「主よ、あなたがここにいて下さったら」と、うったえている切実な気持にもかかわらず、一歩退いて、ありのままの人生を、人々に味わわせられた。人々の願いに、直ちに反応し、愛のみ手をのべられた主に、少しふさわしくないことのようにさえ見える。ラザロのいたユダヤに行こうとされたのは、主ご自身の死の可能性にも関係していた(11:8、46以下)。

主がここで示そうとされた命は、死なないでよい生命ではなくて、死を通りぬけた命である。「わたしはよみがえりであり、命である。生きていて、わたしを信じる者はいつまでも死なない」というみことばは、ラザロの死んでいる現実を目の前にして語られている。人間はみな死ぬ。それを無理に生きていると観念するのではない。ラザロの死後それはすでに4日たっていた。ユダヤの一般俗信によれば、人は死んだのち4日までは、霊魂がそばにうろうろしていると考えられていた。したがってラザロは、名実ともに死んでいたことが強調されているのである。古い人は完全に死ななければならない。主にある命は、単に現在の人生の延長ではない。主はむしろ私たちが死んでしまうことを待たれる。しかしそれだけではない。主はご自身の命をかけて、私たちを死人の中から命へとよび返したもう。もとの人生へとではなく、新しい命へとである。

マルタは、「終りの日のよみがえりの時よみがえる」ことを信じていた。それは理屈からいえば正しい聖書的な予想であるといってもよい。しかし、聖書をとおして示される神のわざは、人間の平面的な論理で捉えられない力をもっている。イエスは、いつか将来のよみがえりの時ではなく、直ちにラザロを墓から呼び出された。「死んだ人が神の子の声を聞く日が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きる」(ヨハネ5・25)。したがって、決して死んだのちの生命の永存ということだけではない。

主は「私はよみがえりであり、命である」といわれた。これは考えてみると、ふしぎな言い方である。命であれば、死を通ってのよみがえりと縁はない。矛盾した二つのことが、同じように並べられている。

しかも、「わたしは」とイエスはいわれる。わたしは「生きている」とか、「よみがえる」というのではなく、命であり、よみがえりであるといわれる。私たちの命であり、私たちのよみがえりでありたもう。私の命、よみがえりは私の手の中になくて、主のみ手の中にある。私たちが自分でつくり出した作品や子供たちというのでなく、私たちの中に外から与えられた主のあがないの命が与えられ、私たち自身を生かす。

それは、今の私たちの心に生きる神との交わりというだけでなく、「よみがえり」でもある。ラザロは、墓から出てきた。感得さるべきものであるだけでなく、よみがえりの日に、よみがえる。空虚な墓と、あなたの手をのばしてわきにさし入れてみなさいというような、具体的な復活が語られている。

こうした聖書の示している永遠の生命の内容は、あの4つの分類にはあてはまらない。むしろその全部にわたっているし、そのいずれでもない。人間を中心とする生命か、キリストを中心とする生命かということこそ、肝心なわかれめである。神によって生きているということは。すでに今始まる永遠の生命である。すでに終りの日が始っているのである。

生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。この二つのみことばは、表面的にいえば矛盾したことばである。しかし、それだからこそ、生きていること、死ということ、信じるということの、型どおりの意味でなく、主が示される内容を考えてゆかなくてはならない。生きていても、墓の中にあっても、主のみ声を聞いてゆかなくてはならない。

(三位一体後第16主日)