宣教75周年記念説教集『祝宴への招き』
むさしの教会は2000年10月8日に宣教75周年を祝いました。それを記念して出版された歴代牧師7人による教会暦に沿った説教集です。復活日
ルカによる福音書24章 1~12節
イースターおめでとうございます!この日は主イエス・キリストが墓からよみがえられたことを記念するお祭りです。 死が克服された日なのです。私たちの最後の敵として死が滅ぼされた。「死は終わりではない。生命の始まりである」ということがキリストにおいて示された。そのことを共に喜び祝いたいと思います。主は神によって創造された新しい生命を私たちに示してくださった。それは単なる蘇生とは違う。ただ死が先送りされたということではないのです。それまでとはまったく違った新しい生命が開始されたということです。「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」とヨハネ黙示録は終わりの日の出来事を告げていますが、復活の生命とはその終わりの日の先取りです。そしてこれは信じるほかにはない事柄でもあります。
私が神学校を卒業して9年間牧師を務めた広島県の福山では、イースターの朝は毎年、キリスト教共同墓苑にある聖徒廟という納骨堂の前で合同早天祈祷会を行いました。それは市内の諸教会が持ち回りで礼拝を担当するというエキュメニカル(教会一致的)な交わりでした。地方では教会がキリスト教のお墓を有するかどうかが重要なポイントとなります。19日には小平にある東教区の共同墓苑で墓前礼拝がもたれますが、これもとても大切なことです。
墓とは私たちが死すべき存在であることを最も明確に表す場所であり、また私たちの最も深い悲しみを表す場所でもある。「メメントモリ」(死を覚えよ)という言葉が中世には合い言葉にされていたようですが、墓とは私たちが最も深く「メメントモリ」という事柄を味わう場所でもあります。
マルチン・ルターは言いました。「私たちはみな死に定められており、だれも他人にかわって死ぬことはない。各自が自分で死と戦わねばならない。なるほど耳に向かって叫ぶことはできよう。しかし、死の時には、各自が自分できちんとしていなければならない。そのとき私はあなたと一緒にはいないし、あなたも私と一緒にはいない。そこでは、各人が、キリスト者であれば求められる信仰の主要条項を十分に知って、準備ができていなくてはならない」(受難節第一主日遺稿の八つの説教の第一より)。
死すべき私たちの前に、復活日の出来事は空っぽの墓を告げています。「見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった」。主の墓は空っぽだったのです。主はここにいまさず!死は確かに「ターミナル」かも知れません。しかし死も墓も終着駅ではないのです。「ターミナル」には終点という意味もありますが、そこで電車を乗り換えて違う目的地に向かってゆくという分岐点という意味があります。末期医療では死にゆく人々へのケアを「ターミナルケア」とも呼びますが、そこには「新しい目的地に向かって方向転換してゆけるようなケア」という意味も含まれています。「ターミナル」とはなかなか味わいのある言葉だと思います。
受苦日礼拝でも申し上げましたが、4月3日に天に召された松之木よし子姉のご葬儀がこの月曜日(四日前の4月6日)にありました。昨年の6月に黄疸が出たために膵臓ガンが発見され、すぐに黄疸の手術をされたのですが、あと半年のいのちと宣告され、10ヶ月を輝いて生き、死の直前まで礼拝に出席され、ハレルヤコーラスの練習に加わっておられたという姉妹です。2月1日のお誕生日で75 歳になられていました。火葬の際に斎場で待っていたときのことです。ご主人はよし子姉がガンを告知された瞬間にも全く動じることがなかったのに本当に驚いたとおっしゃっておられました。「本当にあれは腹が座った女だった。『私、死んでもいいわ』と即座に言い放ったのだから」。松之木さんの実の弟さんもご一緒のテーブルでしたがこういう話をしてくださいました。「姉とは小さい頃から話があってよくいろんな話をしました。哲学や音楽、絵画などの深い話も私たちは意見が一致しました。ただ一つだけ自分と違う点があった。それは姉がいつも『み心のままに』と言っていた点でした。私は信仰を持たないのでそこはよく分からなかったのですが、それでもやはり姉はすごい人だと思いました」と。するとやはり同じテーブルにいたご次男が私に聞きました。「み心のままにとはどういう意味ですか」。「天の父なる神さまの思うとおりにこの身になりますように」という意味ですと私は答えました。
私はその話をお聞きしながら、あらためて松之木よし子さんの信仰の深さに感銘を受けました。「み心のままに」とはイエスご自身が、逮捕される直前に、ゲッセマネの園(オリーブ山)で祈られた言葉でもあります。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22・42 )。主はどこまでもみ心の実現を祈り求めたのです。そのことはまた受胎告知の場面でみ使いに対してマリアが語った言葉を想起させます。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1・38)。福音書記者ルカは「天の父のみ心に対する信頼とその実現」というものに強調点を置いているようにも思えます。
主のご復活はその信頼に対する神の答えでもあります。キリストの十字架とご復活において罪と死が終わりを迎えた。死は究極的な事柄ではなく、復活こそが究極的な事柄なのです。むさしのだよりの巻頭言に「これが最後です。しかしこれが始まりなのです」というボンヘッファーの最後の言葉を記させていただきましたが、死は終わりではなく、新しい生命の始まりなのです。「主はここにいまさず!」 墓は空っぽなのです。私たちは墓の前で悲しまなくてよい。それは終点ではなく、いわば復活の生命に至る門なのです。
「たとい死の陰の谷を歩むとも禍いを恐れません。あなたが私と共におられるからです」と詩篇23 編は語っていますが、キリストは私たちの初穂となってくださった。私たちが死の門をくぐるときにも私たちと一緒に主が歩んでくださる。そして主は私たちの死すべき身体を朽ちることのない栄光の身体へと変えてくださるのです。松之木よし子姉はこのことを信じたからこそ、「み心のままに」と最後まで主のあわれみに信頼し続けることができたのだと思います。死は終わりではない。生命の始まりなのです。
本日はこの喜びの日に、三人の赤ちゃんたちの洗礼式が行われます。青木幸也くん、緒方裕くん、そして八幡和人くんの三人です。ご両親をはじめご家族の喜びはいかに深いことでしょうか。洗礼を通してイエスさまの子ども、光の子供にしていただくのです。三つのご家族の上に神さまの豊かな祝福がありますよう、この三人のお子さんたちが神さまの豊かな祝福のもとに、神と人とに愛される子供として健やかに成長してゆくことができますようにお祈りいたしたいと思います。
本日はまたご一緒に聖餐式に与ります。主は死せる者と生ける者の双方の主であります。この主の食卓をはさんで、目に見えるこちら側には私たち生ける者たちが集いますが、見えない向こう側には、既にこの世の生を終えてゆかれた者たちがこの聖餐式に集っています。松之木さんが加わった天上の聖歌隊も共ににぎやかに、主のご復活を祝いつつ、ハレルヤコーラスを歌っているのだと思います。私たちも天の聖徒の群と共に喜び祝いたいと思います。「主はよみがえられた!」と。
お一人お一人の上に復活の主イエス・キリストの豊かな恵み、神の愛、聖霊の交わりがありますように。 アーメン。
(1998年4月12日)