宣教75周年記念説教集『祝宴への招き』
むさしの教会は2000年10月8日に宣教75周年を祝いました。それを記念して出版された歴代牧師7人による教会暦に沿った説教集です。聖霊降臨日
ヨハネによる福音書 7章37~39節
今日は聖霊降臨日である。これは私達イエス・キリストを信じこれに仕えるものにとっては、大変に重大な意味を持つ日である。
教会暦を見るとよく分かるが、一年間の教会暦は、クリスマスの前の四週間が降臨節(アドベント)で、毎年の十二月始め頃の日曜日降臨節第一主日から始まる。そして十二月二十五日にクリスマスの祝日があり、そして顕現主日、受難節がつづき、イエスが十字架につけられ、私達のために生命を捨て、復活し、六週間地上にあって時々弟子達に会い、やがて天に昇られた。前の日曜日がそれ。そして今日は、地上にある私たちのために聖霊を降臨させて下さった。大変意味の深い記念日である。
念のために言えば、イエスのお生まれになったクリスマスは毎年十二月二十五日で変りはないが、復活日は毎年違う。古い記録によると、丁度春分の日(三月二十一日)のあとの満月後の最初の日曜日にイエスは復活されたので、そのことから春分の日から、いつ満月が出るかによって、毎年復活日は違っている。それによって、今年は三月三十一日(日)が復活日であった。
こうした一年間の教会暦の移り変わりは私たちの信仰生活にとっても、すばらしい体験である。
使徒パウロが、コリントに住む人々に送った手紙の結びに「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」、という祝祷をしるしている。この言葉は、それ以来二千年の間、全世界のキリスト信者にそそがれている祝祷で、今日のペンテコステの聖霊と共に、父なる神と、み子イエス・キリストの三位一体の信仰が、大変明らかになっている。
「父なる神」
父なる神は、私たちには見えない存在であるが、この宇宙の世界の創造者である。この大きな宇宙を見、この小さな地球を見ると創世記にある次の宇宙と地球の創造と、地球の土地と海、植物と動物、人間の創造の記事が本当にすばらしいものであることが分かる。近く行われる西恵三先生のお話が楽しみ。神は大きな愛の手をのばして、私たちに生命を与えて、守っていて下さるのだ。
「主イエス・キリスト」
神はみ子イエス・キリストを地上に生まれさせ、地上に住む人々のため、罪人と共に住み、神の愛を教え、やがて自分のすべてを捧げて人々の罪を贖うため十字架につけられ、苦しめられたのち復活されたのが最大の出来事。これはキリスト教会が、シンボルとして十字架を掲げていることがそのしるしでもある。
ここでイエスの弟子ペテロのことを述べておきたい。ペテロはイエスのお弟子としては、最上の人物であったことは、御存知の通りである。ところが師匠のイエスがピラトのもとに捕えられ、きびしい取り調べをうけている時、心配したペテロは近くのところにこっそり来て様子を眺めていた。ところがそばにいた人物が、ペテロを見て、「お前はあの男の弟子の一人ではないか」と言った。あっと思ったペテロは、それを打ち消して「あなたが何を言っているかわからない」と横を向いた。記録によると、三回これを繰り返したところ、ペテロは「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう」と言うイエスのお言葉を思い出して、泣き出したと、マルコによる福音書に記されている。
またイエスは復活後、いろいろの人々の前に姿を現しておられる。
ヨハネ21:1-14を読むと、漁をしていたペテロは、不漁であった時、一人の人物が現れて「舟の右側に網をうて」と言われ、網をうったら、沢山の魚が取れた。すると一人の男が「あれはイエス様だよ」と言うと、ペテロは、裸のまま水に飛び込んだ、と記されている。
ペテロのような偉大なお弟子が、こんなことをしていたというのは、はるかに愚かな私たちにとっても、大きな問題である。
「聖霊」
こんなことがあって、イエス・キリストを天に送り、今日は聖霊降臨(ペンテコステ)を迎える喜びの日である。聖霊が私たちの一人ひとりに下って来て、すばらしい世界が開けてくるのだ。恐らくペテロは、この日を迎えて偉大な教会の指導者としての活動を始めたのであろう。聖霊が一人ひとりにやどって、新しい生ける力を与えて下さったのである。
今日の福音書の日課、ヨハネ7:37-39は、イエスが、やがて十字架で死に、復活して昇天してから後のことを、言われているようだ。
「渇いている人は、だれでも私のところに来て、飲みなさい。私を信じる者は、聖書に書いてある通り、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。この中の「聖書に書いてある通り」と言うのはイザヤ44:3かも知れない。これによると「私は渇いた地に水を注ぎ、わが恵みをあなたの子孫に与えるからである」とある。これはイザヤがヤコブに言われた言葉であるがこのような聖句を引用して、イエスはそんなことを言われたのであろう。
ヨハネはこのあとで、「イエスは御自身を信じている人が受けようとしている霊(みたま)について言われたのだ」(ヨハネ7:39)と書いている。まだ地上生活をしておられたイエスは、自分が十字架で死に、復活し、昇天してから、聖霊が皆の者に下ってくることをちゃんと心の中で御存知であったことをヨハネは信じていたのであろう。
私のような平凡な人間どもはいつも失敗を繰り返して罪を犯し、ペテロ等には及びもつかぬ者たちである。
讃美歌249番には、こんな歌詞がある。
一、われ罪人の かしらなれども
主はわが為に いのちを捨てて
つきぬ命を 与え給えり
四、思えばかかる 罪人われを
捜し求めて 救いたまいし
主のみ恵みは 限りなきかな
私たち人間は、神様の前では確かに罪人のかしらである。しかhし私たちのために十字架にかかり、復活された主イエスを信じて聖霊にかこまれるなら、内から生きた水が川となって、流れ出るようになるのだ。
使徒行伝2:1-4の聖句も、今日の日の大きな恵みの姿である。
五旬節ーペンテコステが来たので、イエスを天に送った者たちが一つになって集まっていると、天から大きな音がひびきわたり、炎のようなものが一人ひとりの上にとどまった。そして一同は聖霊に満たされたと記されている。
聖霊に満たされるというのは、実質的には一人一人の信仰の問題であって、罪の多い人間が、自分のわざによるのでなく、神によって支えられ、導かれ、永遠の生命に進む姿を示すものではないか。
「むすび」
今まで述べてきたように、父なる神とみ子イエス・キリストと聖霊の三位一体の姿は、教会暦で示されているように、毎年毎年私たちが迎える大切な行事であるが、その中の聖霊降臨の今日の日は、わりに見過ごされたり、軽く取り扱われたりするのではあるまいか。
この日を迎えることは、クリスマスや復活日の賑やかさにくらべて、割に全体的に静かである。しかし大事なことは、実は今日だけではなく、今地上生活をしている罪人である私たちの生涯の全てが実は聖霊によって守られ、聖霊のまじわりの中にあると言うことである。
やがて神の国が喜びに満たされた私たちを迎えて下さるに違いない。
(1991年5月19日 聖霊降臨日)