ミカ書 4:1-5
エフェソ人への手紙 2:13-18
ヨハネによる福音書 15:9-12
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。「人の心の中から」
最初に一つの言葉をご紹介いたします。「人の心から戦争が起こるのだから、平和の城壁を打ち立てるべきもまた人の心の中なのだ。」これはユネスコ憲章(1946年)前文の最初の言葉です。ユネスコ(UNESCO)とはフランスのパリに本部を置く国際連合教育科学文化機関の略称(United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization )です。日本ユネスコ国内委員会のホームページには「戦争は人の心の中から生まれるものだから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」という訳が載っていました。これは確かにその通りだと思います。イエスさまもおっしゃいました。すべて悪しきことは人の心の中から起こるのだと(マルコ7章20-21節)。敵は本能寺にあり!平和の敵は私たち自身の心の中にあるのです。だからっこそ、私たち自身の心の中に平和のとりでを築き、私たち自身が手を結び合ってゆかなければならないのです。私は、フィラデルフィア神学校に留学中、他の留学生とその家族と一緒にマイケル・モラーというドイツ人の教授と一緒にニューヨークの国連本部を訪ねたことがありました。そこを訪れた方がこの中にもおられると思いますが、そこには先程読んでいただいたミカ書(同じ言葉がイザヤ書にもありますが)からの言葉が国連ビルの建物の礎石のところに刻まれています。「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」この言葉が実はユネスコ憲章の「戦争は人の心の中から生まれるものだから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」という言葉を生み出していったのではなかったかと思います。現在のパレスチナの現実を見る時に、本当に私たちは心が痛みます。
平和主日にあたって
8月の第一日曜日は毎年平和主日として礼拝を守っています。特に8月は日本にとっては、広島と長崎に原爆が投下された月であり、また15日には戦争が終わった敗戦記念日があります。私は今、「終戦」記念日とは言わず、あえて「敗戦」記念日と言わせていただきました。それは8月15日がアジアの諸国にとっては解放の記念日として祝われているからでもあります。私の妻は韓国ソウルの出身ですが、韓国では8月15日を光が回復された日と書いて「光復日(カンボクチョル)」と呼びます。それは解放の日であり、喜びの日なのです。私たちはそのことを思う時に複雑な苦いものが腹の底にわき上がってくるような思いがいたしますが、私たち自身と時代の愚かさと罪とをも射程に入れながら、平和を祈念する付きとして8月を覚え、平和のために祈りを合わせてゆきたいのです。そして、平和を考える時、そして平和のために祈る時、そのような心の痛む思い、苦い思いこそ、私たちが忘れてはならないものなのではないか。そう思うのです。私は福山教会の牧師をしています時に、9年間、広島平和セミナーに関わり続けました。広島平和公園には「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」という碑文が中心に据えられています。過ちを繰り返さないためにも私たちは過ちを忘れてはいけない。そう思います。過去に目を閉ざす者は未来に対しても目を閉ざす」(ヴァイツゼッカー)。平和を祈り続けるためには、大いなる逆説ですが、平和を奪われた時や平和を奪ってしまった時の辛く悲しい思い出を心に刻み続けなければならないのです。
私たちの中の人を赦すことのできない罪
「戦争は人の心の中から生まれるものだから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」。これは正しい認識です。誰もがそう思い、それを願っている。しかし、それが実現できない現実を私たちは持っています。私たちの心の底には、どうしてもあの人だけは赦せない、どうしてもあの事だけは赦せないという気持ちが重なり合って沈殿しています。それが何かのきっかけで撹拌される時にむくむくと昔の怒りがわき起こり、人が変わったようになってしまうのです。憎悪は人間をむしばむ病いです。そのそこには恐怖があります。ラッシュ・ドージアという人は、自分を脅かす存在と出会った時に恐怖が人を二つの方向に押しやると見ています(『恐怖~心の闇に棲む幽霊』、角川春樹事務所、1999。『人はなぜ「憎む」のか』、河出書房新社、2003)。恐怖は人間の持つ最も基本的な情動の一つで、そこには「恐怖-逃走-パニック」反応と「恐怖-闘争-怒り」反応という二つの反応パターンが存する。恐怖の原因から逃げるかそれと闘うか二つに一つなのです。例えば蛇を見て立ちすくむというのは咄嗟の対応のために瞬間的に力を溜めているのです。敵意と憎悪というものは後者の反応です。攻撃は最大の防御でもあります。敵意と憎悪というものは自己を外敵の脅威から守ろうとする動物的な防衛本能であり、強力なエネルギーなのです。人間を「敵をつくりだす存在」という意味で「ホモ・ホスティリス(敵対人)」と定義する者もいるくらいです(サム・キーン『敵の顏-憎悪と戦争の心理学』柏書房)。
主の祈りの中の一節を思い起こします。「われらに罪を犯すものを我らが赦すごとく我らの罪をも赦したまえ。」これが一番難しい祈りです。どうしても引っかかってしまう方は少なくないのではないでしょうか。実は、人間の心を深いところまで見通しておられたイエスさまのことですから、この祈りが私たちにとって具体的には祈ることが一番難しいと知っておられたと私は思っています。それは主が教えてくださった祈りだけあって、徹底的に打ち砕かれて謙遜にされた者でなければ祈ることができない祈りなのです。いや、この主の祈りを徹底的に祈り続けることによって私たちは打ち砕かれてゆくと言うべきなのかもしれません。私たちが罪を犯す者を赦すことができるためには、キリストの十字架を見上げる以外にはないのです。あの主の十字架は私の罪を赦すためのものであったということを。
「罪を犯す者を何回赦せばよいのですか。7回ですか」と問うた弟子たちに「7を70倍するまで赦しなさい」と答えられたイエスさまです(マタイ18:21-35)。気が遠くなるような数字ですが、これは490回ということではありません。まだ数えているようでは本当に赦したことにはならない。主は罪を犯す者を無限に赦せと言うのです。神さまに無限に赦されたからです。神さまに1万タラントン(1タラントンは6千デナリオン。=6千万デナリオン。およそ6千億円)の借金を赦された者が100デナリオン(労働者100日分の給与。1万タラントンの6千万分の一!およそ100万円)の借金を赦せない。それが私たちの姿です。み子の命を十字架の上で私たちの罪を赦す代価として支払ってくださった神さまの愛を私たちは知るべきなのです。
私たちはみ子の血潮によって支払われた代価の高価さを考える必要があります。「神はその独り子を賜るほどにこの世を愛してくださった。それはみ子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。キリストの愛、神の愛こそが世界を変えるのです。なぜなら、創造主なる神は愛をもってこの世界を造られたからです。
愛の実現
「戦争は人の心の中から生まれるものだから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」。人の外から入るものが人間を汚すのではない。人の心からこそ悪いものが出てくるのです。この悪い者を立ち切るために、主は十字架にかかってくださいました。私たちの中の敵意や憎しみという悪い思いは主の血潮によって雪よりも白く清めらたのです。この地上では力による制圧が続いています。私たちは確かに力も大切であろうと思います。しかし、正義は常に勝つとも限らないし、また、力の一番強い者が義しいとも限らないのです。私たちはキリストの愛、十字架の愛の力を信じています。それは圧倒的な軍事力や支配力の中で全く無力に見えます。しかしローマ帝国もドイツ帝国も大日本帝国も滅んでしまいましたが、キリストのみ国は滅ぶことなく、ずっとこの地上にあり続けているのです。否、永遠のみ国に向かって存続し続けてゆくのです。なぜなら神の愛は不滅であり、神の愛の実現による以外に、この地上に平和はもたらされないのだですから。だからこそ私たちは、「み名があがめられますように。み国が来ますように。み心が天に行われるごとく、地にも行われますように」と主の祈りを絶えることなく祈り続けるのです。
遠藤周作『女の一生 第二部』より
よく引用させていただく話ですが、遠藤周作の作品の一つに『女の一生』という二巻ものの大作があります。その『第二部 サチ子の場合』の中で遠藤周作は、アウシュビッツ収容所に入れられてやがて一人の囚人の身代わりになって殺されてゆくコルベ神父の姿を印象的に描き出しています。コルベ神父自身は無力で、ボロボロになった姿をした囚人の一人なのですが、その収容所の現実の悲惨さの中で「ここは地獄だ」とつぶやく囚人の一人に対してこう語ったのです。「ヘンリック、ここはまだ地獄ではない。地獄とは愛のないところだ。でもまだここには愛がある」と。愛のないところが地獄なのです。ここにはまだ愛がある。神の愛が生きている。だから地獄ではない。コルベ神父はこう言って自分の僅かなパン切れを倒れている人に分かち合ってゆくのです。このように暴力が圧倒的に支配しているように見える世界の中で平和を実現するということは、そのような愛を実現してゆくことなのです。それは私たち人間の力ではできません。キリストの愛の力が私たちを捉え、私たちを変え、私たちを押し出してゆくのです。キリストのいますところ、そこに愛があります。本日の福音書の日課の中で、主はこう言われました。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」私たちがキリスト者であること、私たちがキリストの教会であることは、この愛(アガペー)の実現にあるのです。
聖餐式への招き
本日私たちは聖餐式に与ります。聖餐式は私たちを愛し拔いてくださった主の愛の行為です。ご一緒に本日の第二日課として与えられましたエフェソ書2章の言葉を覚えながら、聖餐式に与りたいと思います。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(2003年8月3日 平和主日聖餐礼拝説教)