説教 「光の導き」  大柴 譲治牧師

マタイによる福音書 2: 1-12

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

顕現主日にあたって

新年おめでとうございます。新しい年の初めも、ご一緒に礼拝をもって始められることを感謝いたします。

本日は顕現主日。神さまの救いの光がイスラエルの人々だけではなく全世界に輝き渡ったということを記念する主日です。顕現日である1月6日は、教会暦の中では最も古くからの起源を持つ祝祭日として守られてきました。この日は、既に3世紀の初め頃に、エジプトで守られていたとされています。

この顕現日に与えられているみ言葉はマタイ2:1-12。東からの博士たちたちがユダヤ人の王としてお生まれになったみ子イエスさまを礼拝し、黄金・乳香・没薬という三つの宝物を捧げるという有名な場面です。東からの博士たちは占星術の学者たちでした。その数は伝説によると3人とも14人とも言われています。その出来事はユダヤ人の王が全世界の王でもあるということを宣言している。そのようなかたちで主の栄光が異邦人にも輝き渡ったのです。黄金は王なるキリストを、乳香は神なるキリストを、そして没薬は人間なるキリストを意味していると説かれてきました。

私たちはそのようなキリストの栄光の輝きの中で新しい年を始めることができるのです。これはまことに有り難い新しさではないかと思います。

「取り返しがつかない!」

2001年は悲しいことの多い一年でした。2002年も決して楽観はできません。先を全く予測できない時代、何が起こるか分からない時代に私たちは既に入っているように思うのです。現実の私たちの世界は、先週の日課であったマタイ2章16-18節に記されているヘロデの幼児虐殺事件のようなむごい出来事が数多く起こっています。

大晦日の日の朝日新聞の天声人語に次のような文章が載っていて、私は心を動かされました。

このところ、ある言葉が繰り返し頭のなかに浮かんでくる。「取り返しがつかない!」という言葉だ。作家の大江健三郎さんが子ども向けに書いた『「自分の木」の下で』(朝日新聞社)に出てくる▼「私が子どもの時、なにより恐ろしかった言葉はなんだろうか?」と自問する大江さんが思い出す。父が突然亡くなった日の深夜、遺体の横で母親が怒っているような強い声で何度もいっている。「取り返しがつかない!」。廊下で聞いていた大江さんは恐くなって蒲団に戻った▼大江さんは「子供の自殺」について語ろうとした。「子供にとって、もう取り返しがつかない、ということはない。いつも、なんとか取り返すことができる」。これは人間の世界の「原則」なのだ、と。だから、自分を殺してはいけない、他人を殺してはいけない▼大江さんの願いにもかかわらず、世界のあちこちから母親たちの「取り返しがつかない!」の悲痛な声が聞こえてくる一年だった。えひめ丸の事故があった。明石市の歩道橋の事故に付属池田小の殺傷事件、中東では自爆テロとその報復が続き、9月11日の同時多発テロである▼大人たちの任務は、どうしてあんなことが起きたのか、あるいは起き続けるのか、原因を突き止めること、そして二度と起きない手だてを考えることだろう。それはわかる。しかし同時に、大人たちも皆、大江さんの言う素朴な「原則」に立ち返るほかない、との気持ちが強まる▼「取り返しがつかない!」。この恐ろしい発語を、世界から少しでも少なくするために。

「もう取り返しがつかない!」 確かに恐ろしい言葉です。この言葉は私たちの心を引き裂きます。私たちもまた人生の中で取り返しのつかない経験をたくさん積み重ねてきたからです。そのことを思い起こさせる言葉です。

「『子供にとって、もう取り返しがつかない、ということはない。いつも、なんとか取り返すことができる』。これは人間の世界の『原則』なのだ、と。だから、自分を殺してはいけない、他人を殺してはいけない。」とは、いかにもヒューマニストである大江健三郎さんらしい素朴で暖かな発言であると思います。しかし私たちはそれに加えて、キリストを信じる信仰の立場から、「キリストの十字架のゆえに、『もう取り返しがつかない!』ということはない」と言いたいのです。十字架を見上げる時に私たちは、もはや取り返しがつかないと思っていた罪を、キリストがもう一度取り返しのつくものとしてくださったということを知らされるからです。

< キリストと出会う新しさ >

東から来た占星術の博士たちが幼子イエスに捧げた黄金・乳香・没薬という宝物は、ある註解書に、彼らが占星術のためにそれまで用いてきた商売道具であるという指摘があって私はハッとしました。主イエス・キリストと出会うということはそれまでとは全く違う新しい人生を始めるということなのです。重荷を含め、今まで自分が一番大切にしたものをすべて主に捧げることができる。そこから自由になってよい。もう遅い、もう取り返しがつかないと思っていた人生を、キリストにすべてを委ねることによって新たに始めることができるということを意味しています。

クリスマスに私たちは3名の方々の洗礼式に与りました。「はっきり言っておく。だれでも、新たに生まれなければ、水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と主イエスはニコデモに言われました(ヨハネ3:3、5)。洗礼を受け、神の聖霊を受けるときに、私たちはそこから全く新しい生き方を始めることができる。別の言い方をすれば、キリストのいのち、神の聖霊が私たちに、取り返しがつかない状況の中にあっても、取り返しをつけてくださるのだというのです。

クリスマスの光は闇の中に輝いています。「闇が深くなければ見えない光もある」とイブ礼拝の時に申し上げました。するとイブ礼拝の後、ある方から「音楽とみ言葉に本当に感動しました」というお電話をいただきました。実は自分の身内がガンの手術をして暗く長いトンネルのような毎日を送っていた。毎日が闇の中を歩いているように感じていた。しかし、その悲しみの闇の中にこそクリスマスの星の光が輝いている。天使の歌声が響いているのだということに気がつき、改めてみ言葉の持つ力に励まされましたと。説教者としての私にとっては、改めて、み言葉の持つ力に触れる嬉しいリアクションでした。

人間の力が行き詰まることが人生には多々あります。もう取り返しがつかないと思うことがある。東からの博士たちも、もしかしたらそのような悔いの多い人生を送っていたのではなかったか。だから救い主の誕生を告げる星の輝きを発見したときに大きな喜びに満たされたのだと思います。彼らの旅は、闇の旅でした。夜しか星は見えないからです。しかしそのような闇の中で光は輝いている。その光の導きにより、キリストと出会い、彼らはそれまでの古い生き方をすべて捨てて、新しい人生へと入ってゆくことができたのです。私たちもそのような一年を過ごしてまいりたいと思います。取り返しのつかないように見えることがたとえどれほどたくさんあっても、キリストの翼の陰に守られ憩いながら、主と共にご一緒に歩みを始めてまいりましょう。

聖餐への招き

本日は聖餐式が行われます。「これはあなたのために与えるわたしのからだ」「これはあなたの罪のゆるしのために流すわたしの血における新しい契約」といってパンとぶどう酒を分かち合ってくださったキリスト。十字架の上でご自身のすべてを私たちに与えてくださったキリスト。このキリストの愛にすべてを委ねて、共にこの新しい一年を歩み出してまいりましょう。「あなたはもう取り返しがつかないと嘆かなくともよい。わたしがあなたと共にあって、あなたを救うのだから。すべて重荷を負うて苦労している者はわたしのところに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」 キリストは聖餐式を通してそのように私たちに語りかけてくださっているのです。

お一人おひとりの上に神さまの祝福をお祈りいたします。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2002年 1月 6日 顕現主日礼拝 説教)