(東教区出版部発行ブックレット『喜びごと悲しみごと』1976年 5月 1日より)
むさしの教会元牧師で、ルーテル学院大学元教授(牧会カウンセリング)
賀来周一牧師によるやさしいキリスト教冠婚葬祭入門です。
喜びごと悲しみごと
3-A. 聖書に見る死の理解
キリスト教の葬儀の在り方といっても、種々雑多です。カソリックとプロテスタント教会のちがいは言うまでもなく、ルーテル教会と日本基督教団ではちがいますし、ルーテル教会の中ですら、牧師さんによっては、仕方がちがいます。そのようなちがいは、別に問題とはなりません。ただ、葬儀の本質的な、聖書的な理解に立つことが大切なのです。その意味で、私たちは、葬儀の具体的在り方に先立って、聖書は死をどのように見ているかを知る必要があります。
旧約聖書では、生きるということは神の生命の息によるのであって、死ぬことは神の約束を破ったからだとかかれています(創世記2:7-17)。したがって、創世記に見るノアの洪水やソドムとゴモラの物語に見ることができるように、死は神の約束を破ったことに対するさばきのしるしとして描かれています。
しかし、本来、旧約聖書は、死ぬことへの強調点はありません。むしろ生きるということに全体の調子が強く置かれています。アブラハムのように年老い、日満ちて死ぬということは、長寿の祝福として書かれています。とはいっても、長生きをすることだけが、神の最高の祝福というのでもないのです。生命にまさるのは、神の真実です(詩編63:2-3、伝道の書やヨブ記全体)。それは、生と死の問題に究極的なことを見出すのでなくて、生と死の支配者である神を見上げる信仰にこそ、究極的なことがあるとする旧約の信仰に基づいています。私たちは、死については、因果応報的な考えや、運命的な考えで受け止めがちです。けれども、死を超えた神の真実を信じる信仰ということは、今一度思い起さねばならない聖書の信仰なのです。
新約聖書もまた、死の理解を旧約から受け継いでいます。ルカ12:16-21は、人が死を前にしてどのように生きたかが問われています。あるいは、ルカ16:19-31にもまた同じことが言われています。死は、ここでは神のさばきなのです。そして、そのさばきは死後にまで及んでいます。
もし、新約に言う死の世界の表現は互いに矛盾している面もあって通りいっぺんの説明では不十分ですが、一応表面的に図式化すると、「第一の死」 → 「冥府」(1ペテロ3:19) → 「眠りの状態」(1コリント15:51) → 「第一の復活」(黙示録20:5-6) → 「罪人の第二の死」(黙示録2:11, 20:6-14)と「義人の復活」、といった具合に描かれます。このまま見ると新約聖書はずいぶん勝手に死んだあとのことを考えたものだなとの印象を持ちます。
ですけれども、私たちは、この図式が実は、イエス・キリストとのかかわりの中で記されていることに注意しなければなりません。イエス・キリストが十字架の上で死んで下さったことと、イエス・キリストが死から復活されたこととは、私たちの死と無縁ではないのです。人は必らず死ぬ存在だけれども、その死はすでにキリストが死んでくださった死であり、復活によって勝利された死なのです。人の死はこうして、キリストの死と復活によって、すでに打ち勝たれた死に外なりません。同時にまた人は生きている時からすでにキリストの十字架と復活にあずかっており、これから訪れる死の時も、すでにキリストによって勝利された死なのです。そのようにすでにキリストのものとされた死を見つめて、どのように死ぬかを考えることは、同時にどのように生きるかということへかえってくるのです。
死期間近いある一人の姉妹がつくづく語ったことがありました。「私は、歎異抄と聖書を今、読み比べています。歎異抄って、どのように死ぬかを教えるのですね。でも、聖書はいかに生きるかを教えます。私はやっぱり、生きることを選びます」。その言葉は今も耳に残っています。生きるということがキリストにあって生きる信仰を示しているからです。
ヨハネ11章のラザロの復活のこと、パウロのローマ14:8、1コリント15:50以下、2コリント4:11、ガラテヤ2:20、これらはすべて、この信仰を裏付けするものに外なりません。死についてはこのことが分っていればそれで十分なのです。