むさしの教会元牧師、ルーテル学院大学・神学校元教授(教義学、キリスト教倫理)の石居正己牧師による受洗後教育講座です。
(承前)このような信仰の告白と、その信仰が基とした聖書の正典、そして教会の教職制が定まって、教会が具体的な姿を取り、世界に広まって行くことが出来るようになりました。そしてこれらのものは、互いにむすびあっています。いまでは聖書を読もうと思えば、どこででも本屋さんに行って買ってくることが出来ます。ところが、ちょっと大きな本屋さんには、聖書の「講義」という表題で、しかもキリスト教の人でない、新興宗教の著者が書いていた書物があったりします。聖書と言う書物はキリスト教の土台ですが、しかし書物である限り、誰でも読めるし、それぞれに理解も出来ます。しかし、教会では、私たちは、こういう筋道で聖書を読みます、もともとこういう信仰を伝えたのですから、という筋道を示してくれるのが信仰告白あるいは信条と呼ばれるものです。一番基本的なものは使徒信条であったり、ニケア信条であったりするわけです。
私たちの信仰は、これで正しい十分な信仰だというような線を引くことができません。それでも前よりは少しましになったか、と考えたりしているにすぎません。そのような私たちが、少し先輩の人が自分流の勝手なことを言っているのを聞かされたりすると、ついそれが本当かなと、思ってみたりします。それぞれに自らの信仰の言い表し方はありますが、それが直ちに私にとって良いとは限らない。誰でもが勝手なことを言いだすと、その時のご当人には大切な告白であったとしても、一般的な言い方でない時もあるわけです。やはり一定の筋道があって、それに沿って聖書を読んでいく必要があるし、私たちの信仰はこういうふうに養って進んで行くものだということを導いてくれる人がないと困ることになる。それで教職制と言うことが教会の中で考えられるようになりました。
こうして正典である聖書と、信仰告白と、教職制という三つのことが出来て、歴史的なキリスト教会が形成されてきます。さらにこのような教会のあり方をしっかりコントロールしてまとまりを付けておこうということになります。現代風に言えば、教会のアイデンティティを守ろうとするわけです。しかし、それをどのようにするかによっては、問題も出てきます。諸々の教会の一致を確立しようとして、ローマの司教を中心に考えて出来たのが、「ローマ教会」でありました。ペテロやパウロの殉教の地であり、歴史的にローマ帝国に代わって力を持つようになったローマの司教、すなわちローマ教皇のもとに全体の教会をまとめておこうとしたのです。(続く)