3、教会とこの世の問題
ただし、国家との関わりは現在でも問題となります。もともと国家の圧力から逃れて神秘主義的になったとか、国家に従属しすぎたのではないかという反省があるのですが、現在では国家に批判的になるときっと政府からまた押さえつけられるに違いないからです。それが東方での大きな課題です。西方では、むしろ教会が主導権を取りました。というのは、五世紀にフン族の王アッティラがローマを攻めようとしたとき、これと交渉してローマを保ったのがローマの司教でした。ローマの司教は西方の文化を守る役割を果たしたといえます。国は滅びても、教会はそれだけの実力を持ち、国家を越えて文化的な指導をすることが出来たのです。そして各地の高位聖職者を任命したのはローマ教皇でした。
その教会は7世紀ころからそれぞれに「教会領」を持つようになります。日本の場合にも似た現象を見ることができます。お宮に寄進された土地があり、あるいは神戸(こうべ、ごうど、かんべ)と呼ばれた家は特定のお宮の直属の氏子で、領主にでなくお宮に税金を払うといった制度がありました。有力な寺社はそうした領地を、寺社領として持つようになったのですが、同じようなことが西欧の教会でもありました。
宗教改革の時期には、神聖ローマ帝国の皇帝を選ぶのに7名の選帝侯がいました。一番有力な殿様の7名が選挙して次の皇帝を選んだわけです。ルターがいたのはザクセン選帝侯領ですが、その7名の中の3人は「宗教的諸侯」でした。宗教的諸侯というのは、大司教として教会の指導をするばかりでなく実際上領主としての地位をも持っていた人々です。ルターが一番ぶつかった相手のひとりであるマインツの大司教もそうでした。そればかりでなく、各地の教会がそれぞれ教会領を持っていると、その地域の殿様はそこからは税金を取れないばかりか、その土地の税金はローマ教皇庁へ行ってしまうことになります。敬虔な昔の人々が一番よい土地を教会に献上したでしょうから、領主たちは身中によその領地を抱えていることになる。そういうことから、高位聖職者はその土地で選ばせてくれというので、教皇に対して皇帝はいわゆる叙任権を争うのです。(続く)
(1997年 7月)