説教 「エジプト逃避行」大柴 譲治

マタイ福音書 2:13-23

「最初の殉教者」

本日私たちは一年の一番最後の礼拝を過ごしています。クリスマスの喜びを祝った直後に、本日与えられていますのは、たいへんに血なまぐさいエピソードです。王として権威の失墜を恐れたヘロデが、「ユダヤ人の王としてお生まれになった」と言われた幼子イエスをなきものとしようとして、ベツレヘムとその周辺にいた二歳以下の男の子を一人残らず殺させたとあります。権力に目がくらんだ人間がかくも残酷になりうるものなのかと嘆きたくなる出来事でもあります。ルターは「殺された幼子たちこそキリストのための最初の殉教者たちであった」と呼んでいます。

「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから」と記されていますが、わが子を殺された親たちの悲痛な嘆き叫ぶ声が聞こえてくるような痛ましい場面です。これはおそらくモーセが誕生した時の出来事と重なり合います。エジプトの王ファラオは、次第に数を増してゆく奴隷イスラエル人の男の子を殺害しようとしたということが出エジプトの1章にはでてきます。福音書記者マタイはイエスの誕生を新しいモーセの誕生として位置づけているとも言えましょう。

人間の悪魔性~ヘロデ

この嬰児虐殺の場面ほど人間の救いようのない闇が明らかになっているエピソードは少ないと私には思われます。私たち人間は悪魔にもなれれば天使にもなれる。そう思います。これは恐らくヘロデ王に特有なことがらでありつつ、それだけではないでありましょう。私たち一人ひとりの中にヘロデ王と同じ恐ろしさが、同じ闇が潜んでいる。そう思います。占星術の学者たちにだまされたと知ったヘロデは「大いに怒った」(16節)とあります。怒りは人を変える力を持っています。本当に自分が心底怒ったら何をしでかすか分からない、そのような不安さを私たちは持っています。

ヘロデ(大)王は猜疑心の強い残忍な人物としても知られています。(イエスが十字架刑になるときのガリラヤの領主ヘロデはその息子の一人です。)彼は紀元前37年から33年間をユダヤ人の王として統治しました。その統治の長さがヘロデ大王の抜け目なさとローマ帝国に対する政治的手腕を証明しています。彼は二つの理由から民衆から敵意を抱かれるほど嫌われていました。第一は、彼は宗教的にはユダヤ人でしたが人種的にはイドマヤ人を祖とし、半分しかユダヤ人ではなかったですし、彼が親ローマ的な政策を用いたということがあります。第二は、彼の権力を保持するために手段を選ばぬやり方です。彼は次々に、自分の権力を脅かすと考えられる者たちを、自分の親族や子どもたち(しかも三人も!)を含めて、次々に暗殺してゆきました。自分の埋葬に関しては、人々が本当に悲しむようになるために、各家族の一人を殺すように定めたとヨセフスという歴史家は記しています。彼の疑心暗鬼は結局、彼に片時も平安を与えなかったということを示しているのかもしれません。権力の座に着く者の悲劇を感じます。マタイ2章に記されたヘロデ大王の嬰児虐殺の事実を記す資料は他に存在していません。それが実際に起こった出来事であるのかどうかを裏付ける歴史的な資料はないと言ってよい。しかし、ヘロデ大王の周辺がそのような陰惨な血なまぐさい歴史に彩られていたということは確かであったように思われます。人間の持つ悪魔性といったものをこのエピソードは私たちに突きつけてきます。

人間の悪魔性~ヘロデの軍隊

目を転じて、幼児殺しの命令を受けたヘロデの兵隊たちのことを考えてみましょう。よくこのような無惨なことを同胞に対して行えるものだと思います。しかし、限界状況というものは、私たち人間から人間性をいとも簡単に奪い去ってゆくもののようです。歴史における虐殺事件は後を絶ちません。軍隊では上官の命令が一番です。しかし、無防備な民間人の虐殺事件に関わる人間の精神は、普通では考えられない異常な事態です。それを「集団ヒステリー」と呼ぶ人もいますが、その意味では嬰児殺しを実践したヘロデの兵士たちもまた集団的ヒステリーに陥っていたと言えるのかもしれません。

この秋に岩波書店から出版された野田正彰という精神科医による『戦争と罪責』という書物があります。いくつかの新聞などの書評にも載りましたから、ご存じの方もおられるかと思います。この著者は戦争における虐殺行為は洋の東西を問わず起こっているが(第二次世界大戦やベトナム戦争など)、欧米ではそれに関わった兵隊たちの10%が精神的なダメージを受けているのに対して、日本軍においてはそのようなことはほとんど起きていないということに注目して聞き取り調査を始めました。その結果、日本の軍隊には悲しむ心、「共感力」といったものの欠如があったのではないかという結論を得ます。だから殺されてゆく者たちへの感覚が乏しかった。そして著者は、日本人に感情鈍麻あるいは感情麻痺の傾向を引き起こすのは感情を抑圧しようとする日本の社会構造自体に問題があるのではないかと鋭く分析をしてゆくのです。そして過去を知り、豊かな感情表現を交えて語り合い交流するの中に、感じる心を取り戻してゆくよう提言しています。

私が中学2年生の時に観たユーゴスラビア映画で『抵抗の詩』という題の反戦映画がありました。1970年の万博国際映画祭に出品された作品でした。第二次大戦中にナチスドイツ軍に住民レジスタンス運動を続ける民衆が、いたいけな子どもたちも含めて、収容所で虐殺されてゆくというストーリーでしたが、岡山の中学校から映画鑑賞会で観に行ったのですが、同時上映の『サウンドオブミュージック』よりも大きなインパクトが私にはありました。その中で住民たちを無差別に引き出して銃殺してゆくドイツ兵の中にペーターと呼ばれる一人の兵士がいて、途中で「もう、おれはこんなことはいやだ」と命令に従うのを拒否してあっけなく上官にその場で銃殺されてしまう兵士の姿が描かれていました。戦争の持つ非人間性を印象的に描いた一場面でしたが、もう27年以上経つのに、それは鮮やかに私の脳裏に残っています。そのような敵兵士の人間的な部分をも描くことのできたその監督の心の柔らかさに感銘を受けました。しかし、自分がもしそのような状況に置かれたらどうするだろうかと考え込まざるをえません。殺す側もまた人間として大きな苦しみを負うのです。

エレミヤにおける「新しい契約」の預言

殺される側に目を向けてこの事件を見てゆくとどうなるでしょうか。ルターの言う通り、子どもたちは「キリストのゆえの最初の殉教者」となってゆきます。親は必死に我が子を守ろうとしてそれを隠したり、抵抗したに違いありません。我が子と共に傷つき倒れていった親も少なからずいたことでしょう。神はどこにいて何をしているのかと、神のみ心はいったいどこにあるのかと、絶望的に天を仰いだことでありましょう。もしかすると、この出来事のゆえに、神への信仰を捨てた者もあったかもしれない。実はイスラエルの民は、交通の要路に位置する小国であるがゆえに、その歴史の中で相次ぐ大国の侵略を受けて、その不条理さに無数の涙を流し続けたに違いないのです。だから預言者エレミヤもまたそのような言葉を語らなければならなかった。

実は、この「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから」という言葉はエレミヤ書31:15からの引用です(新共同訳p1235)。エレミヤはエルサレムの破局が近いことを預言した孤高の預言者でした。エレミヤ書30-34章は「慰めの書」とも呼ばれていますが、その中でもこの31章はエレミヤ書の中心と言えるだけではなく、旧約聖書の中でもとても大切な箇所でもあります。なぜなら、そこには神とイスラエルとの間に「新しい契約」が立てられるという預言があるからです(13:31ー34)。

見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。(エレミヤ13:31ー34)

先の15節に続く16ー17節には次のような言葉があります。「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る」。これはヘロデによる嬰児虐殺のような悲痛な出来事が必ずやがてあがなわれるという約束のもとにあることを示しています。「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ」とエレミヤ31:3に語られている通りです。み子イエス・キリストの誕生はそのような人間の闇を光で照らすためのものでした。

キリストのこの地上への誕生~「新しい契約」の締結

実は、このエジプト逃避行と嬰児虐殺のエピソードにおける主役は、ヨセフでもなければ、ヘロデでもありません。13節と19節で明確に語られているように(そして22節では「夢のお告げ」と明確には語られていませんが、おそらくそこにおいても)、「主の天使」なのです。「主の天使」とは神さまが自らをそのような姿で示されたと考えてもよいでしょうから、ここでの主役は神ご自身なのです。その神ご自身が、私たち人間をその救いようがない現実の中から救いだそうとしてその独り子を派遣してくださった。ここにエレミヤが預言したところの新しい契約が立てられてゆくのです。「これはあなたがたのために与えられたわたしのからだ」「これはあなたがたと多くの人々の罪の赦しのために流されるわたしの血における新しい契約である」と聖餐式で語られるように、このお方によって私たちと神との間には新しい関係がもたらされ、新しい生命が始まったのです。キリストの十字架の血潮によって、私たちの苦しみに終止符が打たれたのです。この主イエスにおける新しい契約を思い起こすことの中で、私たちはこの1998年を閉じたいと思います。そしてそのことを思い起こすことの中に新しい1999年を始めてまいりましょう。

お一人おひとりの上に神さまからの豊かな祝福がありますように。 アーメン。

(1998年12月27日)