説教 「主に従う」 小泉 嗣神学生

マタイによる福音書 4:18-25

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

最初の弟子の召命

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」 この言葉によって、ガリラヤ湖で働いていた漁師がイエス様の最初の弟子となりました。

ペトロを初めとする最初の弟子達はそれぞれ舟の上でイエス様の声を聞きます。初めの二人は湖上で、あとの二人はもしかすると岸辺で、それぞれイエス様に呼びとめられます。彼らが働いていたガリラヤ湖は当時の人々にとって大事な食料である魚を人々に提供していた湖でありました。当然、その時湖にでていた漁師は彼らだけではなく、他にも多くの舟があり、働いている漁師たちがいたことでありましょう。しかし、イエス様はペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネの兄弟を御覧になり、目を止め、声をかけられたのであります。何故彼らだったのでしょうか?多くの漁師たちの中から何故この二組の兄弟を選んだのでありましょうか?彼らが働き者だったからでしょうか?それとも労働の疲れがその顔に浮かぶ彼らを見て、イエス様が彼らを不憫に思われたからでしょうか?そのことについて聖書には何一つ記されておりせん。

彼らにしてみれば、カファルナウムで伝道をはじめられたイエス様の噂は耳に届いていたのかもしれませんが、初めて出会う見ず知らずの男が岸の方で何かを叫んでいる、自分たちに語りかけているのかどうかも定かではない、普段なら厳しく吹きつく湖上の風の音に混じって、あるいは労働に集中していて耳に届いていないかもしれない、そのような、彼らが働いている最中に、彼らは「わたしについて来なさい、人間をとる漁師にしよう」というイエス様の言葉を聞いたのであります。

そして彼らは、四人が四人とも同じようにイエス様の後についていきます。彼らの仕事の道具である網を捨てて、ヤコブとヨハネにおいては父親をもその場に残してイエス様に従うのであります。彼らにとっては仕事のための、すなわち生きるための道具である網を捨てて、しかも「すぐに」捨ててイエス様に従ったのであります。

以上が本日の日課に記されている「四人の漁師を弟子にする」物語であります。もし、この物語を弟子を中心に置いて読むならば、私たちはペトロやヤコブがイエス様の言葉に従ったくだり、特に「すぐに」という言葉に目が止まってしまうのではないでしょうか。彼らは自分たちの生きるすべである網や舟を「すぐに」捨ててイエス様に従った。そんな彼らが十二弟子となり、イエス様が天に昇られたのち、イエス様を信じる共同体を形成していった。なんと素晴らしい話しでしょうか!明日の事を思いわずらうのではく、自らの生きるすべを捨て「すぐに」イエス様に従った彼らは、なんと大胆な熱い信仰を持っているのでしょうか!

しかし、私は、こう思えば思うほど、その一方で「自らの生きるすべを捨てるなんて…」「こんなまねは私にはできない」、もし主に従うということが彼らのとった行動、すなわち生きるすべを「すぐに」捨て、「すぐに」イエス様の後をついていくことであるとするならば、今の私は果たして主に従っているといえるのだろうか?このような思いがわき、イエス様はなんと厳しい要求を迫られるのか、まるで自分自身の心の弱さを見透かされているようで、胸が苦しくなってしまいます。

キリスト中心に読む

果たしてこの物語は私たちに何を語りかけているのでしょうか?イエス様に従った彼らのすごさを語っているのでしょうか?それとも、イエス様に従うことがいかに困難なことかを語っているのでしょうか?確かに、イエス様と行動を共にした第一世代の弟子達、特にペトロを初めとした十二弟子は、その後のキリスト教の歴史の中で大切な役割を果たしてきました。私たちが彼らから学ぶべきことは少なくありません。しかし、本日の日課をもう一度見てみますと、その表題が「四人の漁師が弟子になる」ではなく、「四人の漁師を弟子にする」となっていることからもわかるように、イエス様が彼らを弟子とした物語であり、イエス様の物語なのであります。

では、この物語をイエス様を中心にして読むとどうなるでしょうか?

まず、イエス様はガリラヤ湖のほとりを歩いてこられます。ペトロやアンデレ、ヤコブやヨハネがイエス様のもとに向かったのではなく、イエス様が彼らの日常であるガリラヤ湖に向かわれるのであります。そして、そこで働く漁師たちを御覧になる。そしてまず、湖に網をおろしているペトロとアンデレに声をかけます「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と。

イエス様は彼らと同じ目線で、しっかりと彼らを見つめながら、彼らの日常の営み、彼らの生きるための営みのを見つめながら、まさにその彼らの営みの最中に、彼らに聞こえるように声をかけるのであります。ヤコブとヨハネについても同様であったでありましょう。彼らの日常の只中にイエス様ご自身が向かわれ、彼らを見つめ、声をかける。彼らからしてみれば突然で、しかも一方的なイエス様の声ではありますが、イエス様からすればしごく当然な、あたりまえの言葉なのです。なぜなら彼らがイエス様をえらんだからではなく、「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと」イエス様が彼らを選んだからであります。

「わたしについて来なさい。あなたがたを人間を捕る漁師にしよう。」 この言葉は、いつものように舟を出し、いつものように漁をしていたペトロとアンデレや、いつのものように網をつくろっていたヤコブやヨハネの日常を、彼らのこれまでのいつもの生き方を変えるには十分に余りある主の言葉でありました。この言葉が彼らの耳に届いた瞬間、イエス様が彼らに語りかけたその時に、彼らの生き方は、自らが生きるためのこれまでの生き方ではなく、神にあって生きるための生き方となったのであります。パンを得るための日常ではなく、イエス様と共に生きるための日常となったのであります。彼らが自身の決断によって生き方を変えたのではなく、イエス様によってその生き方を変えられたのであります。

そして、彼らは「すぐに」網や舟を捨て、父親を残してイエス様に従います。この時をあらわす「すぐに」という言葉も、彼らが「すぐに」従ったのではなく、イエス様が「すぐに」彼らを召されたと言えるのではないでしょうか?彼らが過ごしていた日常の時間ではなく、イエス様によって与えられた時間の中で、彼らが「すぐに」イエス様と共に歩みだしたのではなく、イエス様が「すぐに」彼らと共に歩みだしたのではないでしょうか?

このようにイエス様を中心にして本日の日課を読んだとき、私が弟子を中心にして読み進めたときに生じた胸の苦しさはもはやありませんでした。私が「すぐに」すべてを捨ててイエス様に従わなければならないのではなく、イエス様が「すぐに」私と共にいてくださるのです。しかも、イエス様は私の日常の只中で、「私についてきなさい」と語りかけてくださるのです。

日常生活のただ中で主に従う

イエス様との出会いの出来事とは、生きる目的を変えられる出来事であります。自分が一人で、自分自身の力だけで生きているのではないことを知る出来事であります。ガリラヤ湖の漁師たちは、自分が生きるために漁をするのではなく、神と共に生きるための漁師であることを知らされたのであります。私たちキリスト者もまた、イエス様との出会いによって、生き方を変えられた、神によって生きるという目的を与えられた一人びとりではないでしょうか?

イエス様は、彼らを魚をとるのではなく、人を取るための、すなわち神が私たちと共にいてくださることを告げ知らせるための、人を捕る漁師として召し出したのであります。確かにペトロやアンデレ、ヤコブやヨハネは十二弟子の一人としてイエス様に召されました。しかし、神が共にいてくださる事を知った人々は、これまでの生き方を変えられた人々は十二人だけではありません。もし彼らが農夫だったら、イエス様はきっと「わたしについて来なさい。人を耕す農夫にしよう」と言われたでしょうし、もし彼らが大工だったら「人を建てる大工にしよう」と言われたでありましょう。イエス様を信じた人々は老人・子ども、男性・女性を問わず、様々な職業の人々でありました。イエス様は、それらの全ての人々にも同様に「神があなたたちと共にいる事を知りなさい」と言われたのではないでしょうか?イエス様は私たち一人一人に、その日常の中で、その労働の中で「神が共にいてくださることを知りなさい」と語られておられるのではないでしょうか?

「わたしについて来なさい」という言葉は、私たちがイエス様とであった瞬間、限定されて語られた言葉ではなく、毎日曜日に集う教会の中で、また月曜日から土曜日までの日常の中で、いつもの労働の中で、イエス様が私たちと共にいてくださることを知らせてくださる、そのようなイエス様の言葉なのであります。

主に従うとは、日常の只中で「わたしについて来なさい」、「わたしは常にあなたと共にある」と言われる主の言葉に応じ、感謝することなのではないでしょうか?私たちが日々生きていく中で、些細な事に目がいき、自分自身に執着してしまう、自分が利口で、知恵ある者、強い者であると思ってしまう、自らを誇ってしまう、そのような時に「すぐに」、また自分自身の無力さにさいなまれ、もがき苦しんでいる、誇れるものは何もないと思ってしまう、そのような時に「すぐに」、イエス様は「わたしはあなたと共にいる」「わたしについて来なさい」と語ってくださるのであります。

これから始まる1週間も、私たちの日常の中で語られる、このイエス様の「わたしについて来なさい」という言葉を聞きながら、どのような時も常に私たちと共にいてくださる神に感謝しつつ、主と共に生きてまいりましょう。

 おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2002年 1月 27日 顕現節第4主日礼拝 説教)