マタイによる福音書 6:24-34
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って泣いた」
「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、わたしたちは泣いた。立琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。わたしたちを捕囚にした民が歌を歌えと言うから、わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして『歌って聞かせよ、シオンの歌を』と言うから。どうして歌うことができようか。主のための歌を、異教の地で。」詩編137編の冒頭です。バビロン捕囚によって遠く故国から引き離された民が、「余興のためにシオンの歌を歌え」とあざ笑う者たちから求められてそれを拒むあわれな姿が記されています。この歌はダイレクトに私たちの心に響いてきます。私たちも人生で同じように悔し涙を流さねばらなかった時を知っているからでしょう。故郷であるシオンとバビロンの間にはそれらを隔てる深い河があるのです。
北王国イスラエルはBC722年にアッスリアによって滅ぼされ、南王国ユダもBC598年にバビロニアによって滅ぼされてしまいます。そして民の指導者たちおよそ4600人がその首都バビロンに強制連行された。神から見捨てられた民の絶望は深いものであったことでしょう。紀元前538年のペルシア王キュロスの解放までの60年間、彼らは捕囚生活を強いられます。これがバビロン捕囚の出来事であり、そこで歌われたのが先の詩編137編でした。
しかし、神は不思議なかたちでこの苦難の時を用いてゆかれた。捕囚の苦しみを体験した者たちはやがて「イスラエルの残りの者」と呼ばれ、捕囚後に祖国再建のための中心となってゆきました。さらにはその苦難を通して、イザヤ書53章の「苦難の僕の歌」などに明らかなように、イスラエルはかつてないほどの信仰の深みに達してゆくのです。苦難が信仰を深めたとも言えましょう。
本日はむさしのゴスペルクワイアが礼拝の中で一曲Deep Riverを讃美してくださるということで、黒人霊歌というものに焦点を合わせながら信仰ということについて思い巡らしたいと思います。黒人霊歌とはアフリカからアメリカに強制的に連行されてきた黒人奴隷たちの魂の歌です。そこには自由へのうめきがあり、解放への叫びがある。私たちは礼拝讃美歌では三曲の黒人霊歌を歌っていますが、アフリカンアメリカンの人々が苦しみを通して到達したその深い信仰のスピリチュアリティーに心を向けてゆきたいのです。
サウスカロライナ・チャールストンでの体験から
ちょうど5年前の6月、私たち家族は、フィラデルフィアでの生活を終えようとしていた頃、二週間南部を車で旅する機会を与えられました。一週間は日本福音ルーテル教会と姉妹教会である米国福音ルーテル教会サウスカロライナ教区に招かれて滞在しました。そしてその後の一週間はフロリダにおられる元宣教師のキスラー先生ご夫妻を訪問し滞在させていただきました。サウスカロライナ教区は私たち5人をゲストとして温かくもてなしてくださいました。岸千年先生も学ばれた南部神学校を訪問し、教区婦人会大会でご挨拶させていただき、そして1882年に日本への最初の宣教師二人の按手式が行われたチャールストンの聖ヨハネ教会でも主日礼拝の説教をさせていただきました。いずれも忘れ難い体験でしたが、同時にその地を訪ねて複雑な思いにさせられたのも事実でした。
チャールストンという名前について私は最初の宣教師派遣の地という以外は音楽のチャールストンぐらいしか知りませんでした。しかし訪問してみて驚かされたことがいくつもあったのです。チャールストンはサウスカロライナ州の大西洋岸の天然の良港で、綿花や綿製品、木材、タバコの積出しが盛んな港町で1670年頃に創建されています。町を歩くと奴隷市場跡が町の真ん中にあるのです。実はチャールストンはアフリカ大陸から直接に奴隷船が奴隷を運んできた港町でした。彼らは奴隷市場で家族バラバラに売られてゆきました。そこは奴隷売買の町でもあったのです。
三日間ほど時間があったので私たち家族は車で、現在は記念公園となっている南北戦争勃発の地(サムター要塞跡)やチャールストンの郊外の綿花農場(プランテーション)などを訪問しました。映画『風と共に去りぬ』はジョージア州アトランタが舞台でしたが、サウスカロライナ州はその隣りの州です。映画に出てくるのと同じように大きな農場でした。そしてそこで作られた綿がチャールストンの港から船で積み出されていったのです。
農場の入口から何分か車を走らせたところに、八畳ぐらいの大きさでしょうか、道の片側にマッチ箱のような小屋が何軒か並んでいました。それは「奴隷通り」と呼ばれている奴隷たちの住居でした。中は暗くて窓もなく、土間のままで仕切もなく、二段ベットが四組あったように記憶しています。狭い小屋に8人の奴隷が住んだのです。労働時間はともすれば一日20時間近くにもなったようですから、ほとんど寝るためだけの場だったと思われます。奴隷に関する一切の生殺与奪の権は農園主に与えられていました。農園主によっても違ったようですが、奴隷たちは人間としてではなく家畜同様に扱われたのです。「奴隷通り」の奥にもう一つ門があって、それをくぐると御殿のような荘園主の屋敷がありました。そこには美しいバラ園もあった。奴隷小屋とは対照的で私は複雑な思いに捕らわれました。そこは生涯奴隷として酷使された人々のうめきが聞こえてくるような場所でもありました。
米国における奴隷制度の歴史
米国において最初のアフリカ人が奴隷として売られたのが1619 年。1700年頃までには北米大陸におけるアフリカ人のほとんどは生涯奴隷の身分を確定されており、その子供も無条件にそれを継承してゆきました。1807年にはアメリカは奴隷貿易を禁止して「自由黒人」も認められるようになりましたが、実に二百年以上もアフリカ人たちは南部の諸州では奴隷として酷使されていたことになります。二百年! 気が遠くなる年月です。奴隷の正確な數は分かりませんが、一千万人とも二千万人とも言われています。ちなみに米国では1775年から独立戦争が始まり、1776年に独立宣言をしました。独立宣言起草の町がフィラデルフィアでした。1777年にはヴァーモント州は奴隷制度を廃止しており、1787年頃に誕生した北部の新諸州は最初から奴隷制を禁止した州が多かったようです(オハイオ、インディアナ、イリノイ、ミシガン、ウィスコンシン州など)。
奴隷解放のためとされる南北戦争は実はチャールストンで勃発しています(サムター要塞)。1861年4月12日のことでした。そのひと月ほど前の3月4日、第16代大統領としてアブラハム・リンカーンが就任しています。南北戦争の最中の1863年にリンカーンは奴隷解放宣言を行います。1863年7月のゲティスバーグの闘いで南軍は総崩れになり、アトランタに退却してゆきました。その時のリンカーンによるゲティスバーグ演説は良く知られています。「この国に、神のみむねのもと、新しい自由が生まれますように。そして、人民の人民による、人民のための政体が、地上より滅びないようにしなければなりません」(安野光雅、『天は人の上に人をつくらず』、童話屋、2001、p44-45)。
南北戦争は1865年に南軍の敗北に終わり、奴隷制度は解体され、奴隷たちは「解放」されました。その奴隷制度の中心であったチャールストンから日本に宣教師が派遣されたのは、南北戦争終結の17年後になります。その歴史を知ったときに私は複雑な思いにさせられたのです。教会はどのような立場を取っていたのでしょうか。
マルティン・ルーサー・キング牧師のワシントン演説
米国は「自由と平等の国」と言われていますが、黒人たちにとっては長い間「奴隷の国」でした。マルチン・ルーサー・キングが公民権運動で立ち上がり、ワシントン大行進が行われたのはリンカーンの奴隷解放宣言からちょうど100年後、つい40年ほど前の1963年8月28日ことでした。そこでキング牧師が行った「I have a dream」という格調の高い演説はよく知られています。「私には夢がある。いつの日か、ジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の子どもたちと、かつての奴隷主の子どもたちとが一緒に腰を下ろし、兄弟として同じテーブルにつくときがくるであろう。…私には夢がある。いつの日か、私の四人の小さな子どもたちが、皮膚の色によってではなく、人となりそのものによって人間的評価がされる国に生きるときがくるであろう。私には夢がある。いつの日か、谷間という谷間は高められ、あらゆる丘や山は低められ、でこぼこしたところは平らにされ、曲がりくねったところはまっすぐにされ、そして神の栄光が啓示されて、ひと皆ともにそれを見るときがくるであろう。これが、われわれの切なる願いである。」(安野光雅『天は人の上に人をつくらず』p7-8)
苦難のただ中でマルティン・ルーサー・キング牧師は、イザヤ書40章の預言は必ず実現するのだと神の国の到来を語ったのです。それは深く苦しんだ者だけが語りうる真実の言葉でした。そしてそれは黒人霊歌の心に通じていると私は思います。1964年キング牧師はノーベル平和賞を受賞。同年11月22日にはケネディー大統領が暗殺。やがてキング牧師自身も1968年4月4日、テネシー州メンフィスで暗殺されてゆくのです。39歳でした。
リンカーン大統領も、1865 年4月14日、南北戦争が終わって二週間も経たないうちにワシントンの劇場で撃たれ、翌日息を引き取ってゆきました。今、ワシントンのポトマック川のほとりには、イスに深く腰をかけたリンカーンの石像のある記念堂が建っています。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらずといえり」(福沢諭吉『学問のすすめ』冒頭)。これは西欧のキリスト教社会を視察した諭吉が西洋の、特にキリスト教の考え方を語った言葉であると言えましょう。しかし現実は西洋社会には植民地主義や奴隷制度があった。神の前における人間の自由と平等という優れた理念は、白人社会においてだけ認められていたに過ぎませんでした。人間が他の人間を非人間化し、人間以下の存在としてしか扱わない。これが奴隷制度を編み出した人間の罪でありましょう。そして歴史を見るとこの罪がまん延しています。その同じ罪が私たち自身の中にも根深く存在しているのです。太平洋戦争中に日本がアジアで行ったことと重なり合います。現在は韓国と日本でサッカーのワールドカップが共同開催されていますが、ここに至るまでの道のりは長く険しいものであったと思います。戦争や分断の歴史ではなく、私たちは和解の歴史を積み重ねてゆかねばならないのです。
自由へのうめき~ニグロスピリチュアルの心
黒人霊歌はアフリカからアメリカに連れてこられた奴隷たちの歌でした。非人間的な状況の中で、黒人たちは唯一、救い主イエスを信じ、イエスに祈りを捧げ、讃美を歌うことで生きる力を得、魂の自由を味わうことができたのでした。そこには魂のうめきがあります。人間を束縛し、非人間化する悪の力に対して、自由を求めて神に呼び求める魂の叫びがあります。それは奴隷ではない、人間としての自分たちのアイデンティティーの叫びでもあった。黒人たちはエジプトで奴隷であったイスラエルと自らとを重ね合わせたに違いありません。黒人霊歌とは、二百年もの間「出エジプト」を求め続けた苦しむ人間の魂の叫びです。そのような真実さが私たちの心を打ち、魂に響くのです。彼らにとって歌うことは信仰の告白であり、人間として生きることでした。未来への希望を歌うと同時に、今この苦しみのただ中にキリストが共にいて、彼らの重荷を背負い、自由へと解放してくださるということを信じたのです。そこには苦難を深く味わった者だけが知りうる信仰の自由さがあるように思います。地上の生が絶望的であればあるほど、彼らは真の神の現臨により頼んだ。そのような信仰によって、彼ら生と死を越え、悲しみや苦しみを越えた本当の天の自由さの中へと招き入れられたのです。
深い河 Deep River
この後、ゴスペルクワイアにDeep River を歌ってもらいます。その原詞はこうなっています。「深い河。わたしの故郷はヨルダン川のむこうにある。深い河。神よ、わたしは川を渡って集いの地へ行きたい。ああ、あなたはあの福音の宴に行きたくないか?平和に満ちた約束の地に行きたくないか?深い河。神よ、わたしは川を渡って集いの地へ行きたい。」
ここには神の約束の地に対する切望があります。神は常に苦しむ者の側に立つのです。「我が民の叫びを聞けり」と神は語ってくださる。その歌声は神の正義と公正を求めるうめきであり、叫びでありました。「あなたは何ということをしたのか。あなたの弟の血が地面の中から私に向かって叫んでいる」とカインを殺したアベルに向かって神は告げました。抑圧され、差別され、殺された者、声を奪われた者の声を回復してくださるお方が私たちの信じる神さまなのです。そこには私たちの中にある鈍感さ、無関心を告発する叫びさえ私には感じられます。それは私たち自身を自由へと、人間らしい生き方へと解放してくれる力があるのです。
「野の花、空の鳥を見よ」~神への信頼
「野の花、空の鳥を見よ。天の父はそれらを豊かに養っていてくださる」と語られたお方の言葉には人間を解放する神のダイナマイトのような力が込められていました。奴隷とされた者たちはその解放の力を信じたのです。自由へのうめきが勝利によって必ず応えられてゆくことを信じた。十字架のキリスト、復活のキリストこそ、彼らを奴隷状態から解放してくださる救世主メシアでした。その恵みの神のご臨在を苦難の中で信じる者へとされていったのです。このお方だけが私たちを様々な捕らわれから解放してくださる。捕囚から、隷属状態から解放してくださる。黒人霊歌は私たちにそのような神の信実を告白しています。「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
悩み苦しむ者の上に神の力強い解放のみ業が備えられますように。アーメン。
おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(2002年 6月16日 聖霊降臨後第4主日礼拝 説教)