マタイ福音書 14:22-33
水上歩行の奇跡
本日の福音書には主イエスの水上歩行の奇跡が記されています。その出来事自体は私たちの理解を超えていて、「人にはできなくても神にはできる」というみ言葉を思い起こす以外にはない。しかし、そこに隠された意味について考えてゆくことはできるのだろうと思います。嵐に沈みそうになる「舟」
教会はその歴史の初めから自らを舟にたとえてきました。自らをノアの箱舟と重ね合わせてきたのかもしれません。このむさしの教会の会堂もノアの箱舟をかたどって設計されています。会堂の外壁には、動物たちのレリーフが置かれています。初代の教会も同様に自らを舟に模して理解していました。この世という大海を旅する舟のイメージです。「嵐に沈みそうになる舟」とは(実際にガリラヤ湖では突風が吹くことがよくあるそうですが)、教会がこの世の荒波に沈没しそうになっている姿を示しています。初代教会は、実際、紀元313年にキリスト教がコンスタンティヌス大帝のもとでローマ帝国の国教になるまでは、ユダヤ教の側からもローマ帝国の側からも、厳しく長い迫害の時代を体験しました。マタイによる福音書が書かれた紀元80年代には、まだ教会は荒れ狂う荒波の中で木の葉のように舞っている小さな小舟に過ぎなかった。マタイ8:23-27には嵐の中で舟で寝ていたイエスが嵐を静める出来事が記されていますが、本日の水上歩行の奇跡はこれとある部分で重なり合います。
ただそれと異なる点は、ここでは逆風のために波に悩まされていた舟には主イエスは乗っておられなかったという点です。弟子たちはイエスによって「強いて」舟に乗せられ、向こう岸へ先に行かせられた。主の命令に弟子たちは服従したのです。しかし風と波とに沈みそうになる。時は夜、闇の中での出来事でした。ある註解者は言います。「水、嵐と夜は、教団にとって、とりわけ詩篇の表現によって熟知していた貧窮、不安、死の象徴である」(ルツ)。弟子たちはどれほど不安であったことでしょうか。主のその間、一晩中、山で祈っておられたのです。
新しいモーセ
「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた」。これが弟子たちの恐怖を誘い、彼らは仰天して「幽霊だ!」と叫ぶ。主は彼らに告げて言います。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と。この水上歩行の出来事はマタイ、マルコとヨハネに記されていますが、その背後にはエジプトを脱出したイスラエルがモーセに引き連れられて、紅海を渡ったという出エジプトの出来事が前提とされているのかもしれません(出エジプト14章)。奴隷状態から解放されて自由へと、モーセに率いられて約束の地へと旅立った神の民。イエスは新しいモーセとして、この世の荒波の中を、新しい神の民を守り導いてゆかれる。 主が荒海の上を歩いて舟に近づいてゆかれたのは、舟の中にいる弟子たちを助けるためでした。一晩中祈り続けたのも弟子たち(教会)のためであったに違いありません。「夜が明けるころ」このことが起こったと記されていますが、主の接近の中で闇が光へと変えられていったことがそこでは意味されているのでしょう。主が水の上を歩き(水を支配し)、波が静まり、夜が明けてゆく。不安と恐怖と絶望とがキリストによって駆逐されてゆくのです。
先週私たちは5千人にパンを分ける奇跡について聴きました。この水上歩行とパンの奇跡は密接に関連しています。そこには主イエスの神の子としての権威が示されている。マルコ6:51-52には次のようにある。「イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」。ヨハネ福音書6章はもっとはっきりしている。パンの奇跡、水上歩行の奇跡に続いて、主イエスの「わたしは命のパンである」という言葉が記されているからです。「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(6:47-51)。ここでもモーセと主イエスが対比されています。
「信仰」とは、イスラエルの民がモーセに従ってエジプトを脱出し、荒れ野の旅を続けて約束の地目指して旅していったように、主イエスに従って古いものを捨て去り、新しい人生の旅を始めることなのです。見えないキリストの守りを信じて荒海に乗り出して行くことである。大水の中で神の救いの言葉を信じてノアの箱舟に乗り込む事でもある。イスラエルの民が紅海を渡った出来事は、古い自分に死に、キリストにある新しい自分に生き返る「洗礼」を暗示しています。「洗礼」を受けるところから、私たちの出エジプトが始まる。またそれは、人生という荒れ野の 年の旅を続ける中で、天からのマナ、命のパンであるキリストをいただき、命の泉であるキリストから飲むということです。聖餐式はそのようなキリストの命をいただく出来事でもある。この湖の上を歩くキリストという出来事は、そのような神の権威がイエスと共にあるのだということを弟子たちに示しています。
ペトロの体験
マタイ福音書に戻りましょう。実は28節から33節までは、マタイ福音書だけに記されている出来事です。マルコにもヨハネにも出てこない。それは、どことなくユーモラスなペトロの失敗にも読めますが、溺れる本人は真剣です。ペトロという人は真に大胆な人でした。キリストを信じて水の上に足を踏み出したのですから。大胆さと臆病さを併せ持った愛すべき人間ペトロのその姿に共感を覚える人もおられましょう。「信仰」にはこのように冒険という側面があります。見えないものを信じるというのは確かに冒険です。見えないものは目や手で確かめることができない。信じて踏み出す以外にない。私たちはあの十字架にかかって死んだキリストがよみがえって、見えない姿で今も私たちと共におられるということを信じています。見えないキリストの現臨、リアルプレゼンスを信じている。そして死は終わりではなく、命の始まりであるということを信じている。これは、ペトロがそうしたように、水の上に一歩を踏み出すということと同じではないかと思います。「来なさい」と私たちを水の上を歩くよう招いてくださるキリストがそこにおられる。
そして、ペトロはキリストに向かって水の上をたった数歩かもしれないが、確かに歩いた。人間の力ではできないことがキリストの力、信仰の力によって現実となる。人にはできなくても神にはできる。しかし、強い風に気づいた時、つまりイエスから目をそらして逆巻く荒波に目をやった時に、ペトロは怖くなって溺れかけました。そして叫ぶのです。「主よ、お助けください!」「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と、主はペトロに向かってすぐに手を伸ばしてつかまえながら言います。ここが今日の中で一番重要なポイントです。「信仰」とは何かということがはっきりと記されている。
それは私たち自身に語られた言葉であるかのように響きます。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。私たちはいつも自分の信仰の不徹底さ、曖昧さ、あるいは弱さといったものを心のどこかで感じている。キリストだけを見つめなければならないのに、荒波や暴風の方に圧倒されてしまう。信じていると言っても疑っていたりする。みんなどこかで自分はダメな信仰者だと思っている。突然の苦しみや悲しみ、絶望が私たちを圧倒するような時、キリストを信じてはいてもこの世の荒波に溺れかかりそうになる時がある。私たちには「主よ、助けてください」と叫ぶことしかできない時がある。確かに人生には自分の力ではどうしようもない、そのような時があるのです。自分の「信仰の薄さ」に嫌になる時がある。しかしそのような時、溺れるペトロにすぐさま手を伸ばしてしっかりとつかまえられたように、主は私たちをもそのみ手をもってしっかりとつかまえてくださるのだということを今日の出来事は伝えています。「安心しなさい。わたしである。恐れることはないのだ」と言って、主は不信仰という暗黒の海の中に溺れそうになっている私たちをしっかりとそのみ腕でつかまえてくださる。そこにはもしかしたら、教会という舟の中から海へと転落した者をも舟の中へともう一度連れ戻してくださる主の働きも同時に語られているのかもしれません。迷える羊を探し求める羊飼いの姿がそこにはあります。
「信仰」とは自分の力で歩くことではありません。私たちに水の上を歩くことは最初からできない。主の力に頼って、いや、主につかまれて主と共に水の上を歩くことなのです。「信仰」とは、その意味では、ルターが言うように、私たちの業なのではなくて私たちにおいて働く神さまのみ業なのです。椎名麟三は洗礼を受けた時に「ああ、これでおれは安心してジタバタして死んでいける」と言いましたが、ジタバタと溺れる以外にない私たちをキリストがしっかりとつかまえてくださる。だから安心なのです。「安心しなさい。わたしである。恐れることはないのだ」。私たちは安心してジタバタしてよい。安心して溺れてよい。迷っても、行き詰まっても、落ち込んでも、「主よ、助けてください」と繰り返し叫び続けても、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と主に言われてもよい。主がそのまなざしの中にしっかりと私をおいてくださり、主がそのみ腕でしっかりと私をつかまえてくださっているのだから。「信仰」とはそのようなキリストの働きに自らを委ねてゆくことです。
キリストだけを見つめる
さらに言うならば、私たちが人生において溺れかかる時、悲しみや苦しみに圧倒される時、どこにも希望が見えずに絶望に圧倒される時、死と罪と孤独とに打ちひしがれる時、私たちは私たちのもとに向こう側から近づいてくださって、「わたしのもとに来なさい。水の上に踏み出しなさい」と私たちを招いてくださるお方を見上げることができる。私たちがそのようなお方を持っているということは、本当の慰めであり幸いであると思います。そのようなキリストを見上げるときに私たちの夜が明けるのです。キリストという義の太陽が昇り、終わることのない光の世界が始まる。「神は言われた。『光あれ』。すると光があった」(創世記1:2)という神の新しい創造の世界が始まるのです。この新しく始まった一週間も、お一人おひとりの歩みを水と波と風とを支配する権威をもったキリストがしっかりと守り、支え、導いてくださいますように。 アーメン。
(1999年 8月29日)