マタイによる福音書 18:15-20
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。「私を、あなたの友にしてください」
「私は、友が無くては、耐へられぬのです。しかし、私には、ありません。この貧しい詩を、これを、読んでくださる方の胸へ捧げます。そして、私を、あなたの友にしてください。」(八木重吉 第一詩集『秋の瞳』 序)
魂に響く言葉が存在するのだということを私はこの詩人から教えられたように思います。これは信仰の詩人・八木重吉の第一詩集『秋の瞳』の序の言葉です。神学校時代に石居正己先生がやはり八木重吉を授業の中でしばしば引用されていました。八木重吉1898-1927・明治31年-昭和2年)は29歳で肺結核のために亡くなりましたが、彼が詩を書き始めたのは24歳。亡くなるまでの5年間に実にたくさんの詩を作っています。
もう一度お読みします。「私は、友が無くては、耐へられぬのです。しかし、私には、ありません。この貧しい詩を、これを、読んでくださる方の胸へ捧げます。そして、私を、あなたの友にしてください。」
私たちは友の存在に大きく支えられるということを知っています。友愛(フィリア)というものを重んじたアリストテレスやキケロといった哲学者のみならず、『走れメロス』を書いた大宰治などのことをすぐに思い起こします。るうてるの福音版に毎月優れたコラムを書いておられる堀肇先生は、ポール・トゥルニエという精神科医を紹介しつつ、「友情というのは動物には存在せず、人間固有のものであり、友愛というものは人間にとって最も美しい価値である」と最近考えていますと私におっしゃってくださいました。私自身も友情の大切さを考えます。夫婦であっても、親子であっても、兄妹であっても、互いに友愛の情を保ち続けることはとても重要なことなのではないかと考えています。なぜかといえば、友情というものは、上下関係でもなく、強弱の関係でも、優劣の関係でもなく、人間として対等な「我と汝」の関係を前提としているからです。
本日の使徒書の日課でパウロは次のように言っていました(新共同訳聖書には「隣人愛」というタイトルがついています)。「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」(ローマ13:8-10)。この「隣人を自分のように愛する」ということで、実はパウロもまた「友情」について語っているのではないかと私には思わされるのです。
友情の大切さを私たちは体験的に知っています。私たちは友が欲しいと心底真剣に思っている。しかし現実の私たちは、友の大切さを知りながらも、なかなか真の友を見出すことができないでいる。人間関係の困難さの中で、照れ臭さや見栄などもあって、なかなか重吉のようには素直になれず、「私を、あなたの友にしてください」と言えずにいるのです。だからこそ私たちは、先ほどの言葉に表された八木重吉の寂しさがよく分かるのだろうと思います。
友とは何かというと、それは深いところで大切なものを分かち合う関係でありましょう。響き合う関係といってもよい。しかしそれはまたただ単に響き合うだけでない。本当の親友というものが喧嘩をした後に仲直りをすることを通して与えられ、友情が対立を乗り越えることで互いに深められてゆくように、真の友情とは、言いにくいことをも互いに言い合うことのできる関係、よい意味での批判し合える関係を意味していることも忘れてはなりません。遠慮しあっていては、表面的なことばかりでは、本当の友は得られないのです。
八木重吉の詩を読むときに私たちの心の琴線が震えるような気持ちになるのは、そこに重吉の、弱さや破れや恐れや憤りを含めたごまかしの無い本当に正直な思いが、率直にそして正確に言葉化されているからだと思います。そしてその正直さに心動かされ、そこに自分自身の姿を重ねて見ることができるからではないかと思います。別の言い方をすれば、詩の真実な言葉を媒介として、私たちが時空を超えて、心の深いところでつながる(哀しみの中で響き合う)体験を持つからだと思います。
罪を忠告し合うことができる関係
本日与えられているイエスさまの言葉は、兄弟についての教えですが、そのような真の友情について語られているように思います。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」(マタイ18:15-17)。最後の「異邦人か徴税人と同様に」という言い方は少し気になるところですが、細かいところにこだわって大切なことを見失わないようにいたしましょう。これは私たちに罪を忠告つまり戒め合い、悔い改め合い、赦し合うという相互の関係を求めた主の言葉です。マザーテレサは「愛の反対は憎しみではなくて無関心である」と言いましたが、それは私たちに隣人との深い関わりを求めた言葉です。教会の兄弟姉妹の交わりというものは、無関心の関係ではなく、互いにほってはおけない関係なのです。「忠告する」というのも「裁く」ということとは違います。人を裁くということも、多くの場合、無関心の変形(ヴァリアータ)にすぎないのではないかと私は思っています。ここで言う「忠告する」とは(傍観者的に「裁く」のではなく)「愛をもって向かい合うこと」を意味しています。
二人の間で問題となるのは「罪」と「義」の次元です。聖書で用いられる「罪」という言葉は、何か悪いことをしたというよりも、むしろ本質的には神さまとの破れた関係を表す言葉ですから、神さまとの関係を忘れてしまっているということでありましょう。そこではもう一度神さまとの正しい関係に立ち返ること、「和解」ということが求められているのです。
「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:18-20)。
この18節の言葉はマタイ16章で、ペトロに天国の鍵を授けるとイエスさまがおっしゃったところにも出てきた言葉です。この地上で罪を赦すことと赦さずにおくことが即天上での出来事、つまり救いの出来事に結びついているというのです。「罪」ということはそのような決定的な次元の事柄なのです。神さまとの関係が修復されるか破れたままであるかということは大問題なのです。
私たちはふだんはあまり「信仰」の持つ力について感じませんが、ギリギリの切羽詰まった状況に置かれたときに気づかされるのです。私たちが生きる上で、そしてそれだけではなく死ぬ上でも、神さまとの関係こそが一番大切な事柄であるということを。パウロはそのことをロマ書14章でこう言い切りました。「わたしたちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」と(14:8)。
本当の友情とは、このような無くてはならぬ唯一の次元へと互いを導くことなのです。主は言われました。「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(19-20節)。この言葉を友情に対する祝福として受け止めたいと思います。二人または三人の真実な交わりの中には主が共にいてくださるのです。
キリストのまなざし
先ほど教会賛美歌298番を歌いました。その3節にはこうありました。われを見たもう、救い主の愛に満つるひとみ、
罪をゆるし、やすき与え、いのち満たしたもう。
嘆きいたむわれを捕えたもう、
神の愛のひとみ わが主のまなざし。
キリストのまなざしを私たちはどこに認めることができるか。それは私に真剣に向かい合い、関わってくれる友のまなざしの中に、それを認めることができるのです。我と汝の出会いの延長線上に永遠の汝の熱いまなざしがあるのです。友との和解と神との和解はそこでは一つに重なっているのです。
「私は、友が無くては、耐へられぬのです。しかし、私には、ありません。この貧しい詩を、これを、読んでくださる方の胸へ捧げます。そして、私を、あなたの友にしてください。」
八木重吉は神への詩を歌うことでそこに真の友を求めようとしました。神を求めることの中に本当の友が与えられてゆくということなのです。地縁でも血縁でもない。聖霊縁とも言うべきつながりの中に本当の友情が上から、恵みとして与えられてゆく。私たちは互いにキリストにある友として、和解の使者として出会うのです。
二人または三人の中に(もちろん、それはキリスト者だけに限定されるわけではありません!)キリストが共にいてくださるということを、私たちはそのような交わりに対する祝福と約束と希望の言葉として受け止め、聴いてゆきたいと思います。
八木重吉の言葉で始めましたので、もう一つの八木重吉の詩で終わりたいと思います。
ひとよろこべど
そのよろこびにわれはおどらず
われかなしめど
わがかなしみにひとはなかず
くるひたるがごとく
けふもあゆみゆくなり
ああたれかありて
おなじおもひをかたるものはなきか
(欠題詩群(一)より)
ここにお集まりのお一人おひとりの上に神さまの豐かな祝福がありますように。私たちに与えられている夫婦、親子、兄弟などの家族や、学校や職場や地域における他者との一つひとつの交わりがキリストのゆえに豐かに祝福されますように。 アーメン。
おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(2005年 9月25日 聖霊降臨後第19主日礼拝)