マタイ福音書 21:1-11
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。祈り
天の神さま、今朝もこうして、私たち一人ひとりあなたに集められ共に礼拝ができることを感謝致します。ここに集められた一人ひとり様々な思いを持って今ここに集められています。悲しみの中にある人、悩みの中にある人、これから起こるであろう事に胸ふくらませ希望に満ちている人、様々です。しかし神様あなたはその一人一人の思いをご存じであり、大切に寄り添ってくださいます。今私たちは一人ひとりの心にある方々と共に、あなたに心を向け、み言葉に預かろうとしています。どうぞこの語る者を通し、ここにおられるお一人お一人に神さま、あなたがお語りください。この僕の全てをあなたにお委ねいたします。
この祈りを主のみ名によってお祈り致します。ア-メン。
桜の季節を迎えて
おはようございます。桜の木の花の蕾もふくらみ、一つ一つが神様に与えられる「咲く時」を待っています。同じように私たちも少しずつ暖かくなる日差しの中で、春が少しずつ近づいていることを感じます。この4月から新しい生活が始まる方も少なくないと思います。希望や不安が入り交じったような、なんとも言葉にはできないくすぐったいような気持ちでいっぱいの方もおられるのではないでしょうか。自分が思っていた通りにはいかずに悔しい思いでいっぱいの方。一人ひとりが違う気持ちでこの季節を迎えています。しかし、私たちは教会の暦で枝の主日という主日を迎えています。主イエスが十字架の道へと歩まれることに心を向け、主イエスが私たち一人ひとりの罪のために歩まれた一足一足に心を向けるのです。
私たち一人ひとりの心は様々状態にあります。しかし神様から与えられるみ言葉は変わることはないのです。
2008年3月16日(日)の枝の主日を迎えた今日、与えられました聖書の箇所は主イエスのエルサレム入城が記されている箇所です。この聖書の箇所は主イエスの受難物語の始まりの記事です。どうして今、私たちにここが示されたのでしょうか?主イエスのエルサレム入城は今、私たち一人一人に何を語っているのでしょうか。
皆様とご一緒に、聖書に聴いていきたいと思います。
子ろばに乗ってのエルサレム入城
マタイ21:2.3において「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばがいるのがみつかる。それをほどいて、わたしのところに引いてきなさい。もし、だれかが何かを言ったら『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」と主イエスは、弟子たちに言われます。主イエスと弟子たちとの一行はエルサレムへと近付きます。そして、主イエスはエルサレムへ入城されるときに、子ろばを必要とされます。その時代、日常に使われていた子ろばを主は必要とされるのです。
そして主イエスは共につないである母ろばであろう、ろばと共に子ろばを必要とされます。その子ろばが一番安心して主イエスの元へと行かれるように親ろばと一緒なのです。
二人の弟子が、向こうの村に行くと主イエスが言われた通り、ろばと子ろばがつながれており、彼等は主イエスが言われた通りにして、ろばと子ろばを連れて来ます。主イエスのもとへと連れてきたとき、弟子たちは、子ろばに自分たちの着ていた服を掛け、その上に主イエスは乗られました。
道の上には、服や枝が敷かれ、人々は主イエスに祝福の言葉をかけます。栄光のメシアへの期待であり、賛美でした。しかし、主イエスにとってこの道は人々が期待する栄光の王への道ではなく、十字架へと続く道に他なりませんでした。
でも、主イエスご自身が見上げていたものは十字架という死の先にある命への道でした。
今、現在に生きる私たちに何が語られているのでしょうか。
主イエスは二人の弟子に言われました。私が必要とするのは、「子ろば」であると。この子ろばと日本語に訳されている言葉は子馬とも、動物の子どもとも訳すことができ、特定の動物に向けられた言葉ではないとも私たちは理解することができます。それは、私かもしれないし、あなたであるかもしれないのです。そしてその子ろばをただ1匹だけ親から引きさき子ろばが不安になるであろう状態にはされないのです。親と一緒に子ろばがただそのまま安心して主のご用に用いられるために。
そして主が必要とされるその子ろばとは、たくさんいるうちのどれでもいいのではなく、その子ろばなのです。
主は子ろばの状態をご存じであり、その子ろばだからこそエルサレム入城のときに必要とされるのです。
エルサレムのヴィア・ドロローサ(悲しみの道行き)
私はこの季節必ず思い出すことがあります。それは10年前にエルサレムの十字架への道を歩いたその時のことです。私は皆様のうち何人かはテレビのドラマで観た方も少なくないと思いますが、『1リットルの涙』というドラマの主人公の女の子と同じ病気の脊髄小脳変性症という進行性の難病であることを14年前に診断されました。このままでは自分を見失ってしまいそうだと思い、それまで勤めていた会社を辞めてルーテル学院へ編入させて頂きました。その時は杖も車椅子も必要なく自分の足だけで歩行していました。
この季節に思い出すというイスラエルを旅行したのは入学した二年後でした。ルーテル学院の主催されたイタリア・イスラエルの旅でした。その旅行の時は右手には杖を持ち左手は母の肩に支えてもらいやっと自分の足で歩いていました。
始めの1週間はイタリア旅行でした。その旅行の数年前もイタリアの同じような観光名所を両手に荷物を持って走り回っていた自分が思い出されすごくみじめな気持ちでいっぱいでした。そんな気持ちのまま旅行はイスラエルへと進んでいきました。何日目だったでしょうか、ツアーは主イエスが歩かれたという十字架への道ドロローサを歩くことになり、冷たい雨の降る中の歩みでした。
旅行の団体に遅れながら杖と母の肩を持って歩きました。始めはあまりにも変わってしまった自分がみじめで、それでも歩かなければ皆に遅れてしまうという焦る気持ちでもいっぱいでした。十字架への道を歩き始めてどのくらいたったでしょうか。
フッと主イエスはこの道をどのような気持ちで歩かれたのだろうかと思ったのです。主イエスは、ご自分を裏切った人間への恨みでいっぱいの気持ちだったのでしょうか。やがて与えられる栄光への優越感だったのでしょうか。
違います。主イエスは神様へ心を向け祈りつつ歩まれたのです。
神さまへ祈る主イエスが痛みや悲しみを感じなかったわけではなく、痛みや悲しみはそのままでしたが今、ご自分が神さまに与えられている「時」を歩かれたのです。
主イエスへと心を向けられた瞬間はなぜだったのか私にはわかりません。ただ、その時に私が心に感じた主イエスの言葉は「そのままのあなたでいい、私について来れるか。」という言葉でした。
「あなたの余命は何年です。」と医者に宣告された方の生き方に私たちは教えられることがあります。主イエスも同じだったのではないでしょうか?十字架というこの世では終わりとされている死を前に、しかし余命の宣告を受けた方も十字架を目の前に歩まれる主イエスも限られた命を悲しむのではなく「与えられている今」を生かされていることを知り、今を精一杯生きる者とされたのではないでしょうか。
「与えられている今を生かされる」一人ひとりにとっては死は終わりではありません。いつくるかという不安でもありません。「今」というこの時の中を生かされているからです。
でも、いくら「そのままでいい」と言われてもそれが一番難しいかもしれません。ただそれも難しくはないのです。主イエスが歩まれたように一歩一歩を自分のペースで歩めばいいのです。
自分の足であっても杖であっても車椅子であっても。
主は今、私がどのような状態であるのか、ここで立ちすくむしいかできないでいる私をもご存じです。
しかし、主は言われます、「あなたが必要です」そのままのあなたがそのままで必要とされるのです。
これは、一人一人の人に同じように語られている言葉です。私たちは私たち一人一人の違った在り方で、そのまま主に必要とされているのです。
伝道の書3:1-8
口語訳聖書伝道の書3:1-8までお読み致します。天(あま)が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
生まるるに時があり、死ぬるに時があり、
植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、
泣くに時があり、笑うに時がsあり、悲しむに時があり、踊るに時があり、
石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、
抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、
裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、
愛するに時があり、憎むのに時があり、戦うに時があり、和らぐのに時がある。
私たち一人ひとりに「時」を与えてくださる主が言われます。
「今そのままのあなたが、私に必要です。」
おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(2008年3月16日 棕櫚主日礼拝説教。伊藤早奈牧師は現在、東教区嘱託牧師で東京老人ホームチャプレン。)