マルコによる福音書 2:12-13
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。福音書記者マルコの言いたかったこと
四旬節の第一主日の聖書の箇所としてわたくしどもが今日聞きましたのは、有名なイエス様の荒野の試みの場所であります。おそらくはどなたでも「人はパンだけで生きるのではない」というあのイエス様の言葉をよく御承知でありますように、今日の聖書の箇所はほとんど、もう説教のする必要がないほどわたしたちはよく知っている箇所であります。マタイであれマルコであれルカであれ、それぞれの福音書の中ではイエス様の荒野の誘惑の出来事のことが書いてありますが、読み比べてみますとこれはまた意外なことにそれぞれに書きぶりが違うのであります。ことに今日わたくしどもが読みましたマルコによる福音書を御覧いただきますと、あの悪魔そのものがイエス様を誘惑いたしましたあの三つの誘惑の言葉がないのであります。マルコはただ御霊がイエスを荒野に追いやった、イエスは40日の間荒野にいてサタンの試みに遭われた、そして獣もそこにいたが御使いたちはイエスに仕えていた、それだけのことを書くのであります。
マルコはおそらくここで、言いたかったことがあるに違いない。これだけはぜひ強調しておきたい、こう思ったことがあったに違いないのでして、その強調したかったことは何かなということを聖書に耳をつけて聞いてみますと、きっとこう言っているだろうと思います。「イエスが荒野で誘惑を受けたのは、これは、御霊によるのだ。御霊がイエスを荒野に追いやった。そしてイエスは荒野で試みを受けられた」とこういうことであります。
そこで、ほかの福音書のところを見てみますと、これはまたそれぞれに言い様が違うのであります。マタイによる福音書を見ますと、「御霊によってイエスは荒野に導かれた」と書いてあります。ルカによる福音書を見ますと、「御霊によって引き回されて」とあります。マルコは、「御霊がイエスを荒野に追いやった」と書いてあるのです。「導かれる」とか「追いやる」とか「引き回す」とか、そういう言葉がここで書かれている。わたくしどもは「試み」というのはわたくしどもにとって大変激しいものであると思っておりますから、イエス様がいかにも激しい試みに遭われたということが容易に想像がつくのでございます。そういった意味では「追いやった」とか「引き回された」とかというのは、イエス様の試みにふさわしい言葉であろうかとも思います。
試練はどこから来るのか
通常わたしたちは「試み」とか「試練」というものは、「苦痛に満ちていればいるほど」それは悪魔でありますとか、あるいは「敵」からやってきた、こういうふうに思うものであります。ついこの間もですね、御病人がお家の中に次々とでられるものですから、わたくしどもの教会の方がいらっしゃって、冗談半分でもあるのですけれども、「先生、お祓いしてくださいよ」とおっしゃったんですね。つまり、なにか「祟りのあるようなもの」だから、悪いことばかり起こるから、なにか「悪霊がついているようなもの」だから、「先生、お祓いしてください」というふうにおっしゃるんです。これは冗談半分ではありますけれども、わたくしどもは「人間にとって辛いこと」とか、あるいは「苦痛に満ちたこと」が起こりますと、その元凶になるのはやはり「悪霊」じみたものとか、あるいは「化け物」の祟りであるとかですね。なにか先祖が悪いことをしたからではないかとか、なにかそういうふうに「悪者」を思い起こして、その結果だと思うのですね。まさかその「神様」から悪いことが起こるとは誰も思いません。神様が何か人間に試みをお与えになるとか、苦しみをお与えになるということはわたくしどもにとっては考えにくいことであります。そして、多くの場合は何か悪いことが起こりますと、「どうして信仰を持っているのに神様はわたしにこんな不幸を絶えずくださるのですか」「どうして神様を信じているのにわたくしはこんなに苦しむのですか」というふうに言うのがわたくしたちの普通の考え方であります。けれども、聖書でイエスが遭われた荒野での試みはどうであるかということを見てみますと、今お気付きになりますように、「御霊に導かれて」あるいは「御霊に追いやられて」「御霊に引き回されて」と書いてあります。「御霊」というのはもちろん「神様の霊」のことであります。神様の力のことです。神様の力が働いて、しかも、それも激しく働いている。そしてその上で、その神様の力によって悪魔がイエスを試みている、こういうふうに聖書は書いているわけであります。悪魔は神様の力に逆らって、神様は何かよいことをお与えになろうとしていらっしゃるのに、それに逆らって、「いや、わしは人間に不幸を与えよう」というふうに悪魔は働いているわけではない。神の力に従って悪魔はイエスを試みているのです。いわば悪魔は神様の道具としてイエスを試みているわけであります。敵と思っているものがじつは神の道具にほかならない。そういう事実がイエス様の心の中に示されています。
「いや、これはたまたまイエス様のことだから、イエス様だけが悪魔というものを神様の道具として現われたに違いない。そして神様は悪魔を御自分のあたかも手下のように使ってイエス様を誘惑された。わたしたちはちょっと違うんじゃないか?」というふうに思いがちですが、果たして「そうだろうか?」と思うのですね。わたしたちの試みや試練というのは、神様以外のところから来る。そして神様はいつも親切なお方であって、決してわたくしどもを苦しませるようなお方ではない。そういう「善いお守り」のようなお方がわたくしたちの神様なのだろうか?と思うのであります。わたくしどもにとっても「敵」と思っている、わたくしどもを苦痛に遭わせ、わたくしどもにさまざまな試みをしてくる敵は、じつは神以外の存在ではなくて、神自身が使い給うあのものではないのか?神ご自身がそうわたくしどもに迫っておいでになるのではないのか?悪魔を通してでも迫っていらっしゃるのではないのか?そのようにここでは考えてもよい箇所のように思うのであります。
ルターによる『悔い改めの詩篇第6編』の講解から
じつは、先週からわたくしどもは飯能集会で、ルターの七つの悔い改めの詩編を学んでおります。この七つの悔い改めの詩編というのは、詩編は150篇ありますが、その中の七つだけを昔から「悔い改めの詩編」と呼んできました。6篇と32篇と38篇と51篇と102篇と130篇と143篇の七つです。この七つはだいたい受難週のときに読むのですね。聖金曜日に読む。そのような詩編についてルターが講解を書いているのです。書いたのは1517年です。1517年というのはルターが宗教改革を起こした年です。そして8年後にもういっぺん改訂版を書くのですが、ちょうどルターのいわば大きな生涯の転機となるようなことを起こした、そういう出来事にふさわしく、その年に彼はこれを書いているわけであります。この最初の第6篇をこの間勉強したのですけれども、この第6篇というのは、「主よ、あなたの怒りをもってわたしを責めず、あなたの激しい怒りをもってわたしを懲らしめないでください」という言葉で始まる詩編であります。ルターはこの詩編を書いた人の心の中に、苦しみの中にあってもなお神様から離れようとしない、ひたすらに苦しみの最中で神を見ていく、そういう信仰者の姿があるのだということを見ている。そういうところからこの七つの悔い改めの詩編の講解を書いているのですが、ルターの言葉そのものを引用しますとこう言っています。「すべての試みは、たとえそれが悪魔や人々から来るのであっても、神から来るのである」と。そして、「人は苦しみの事実を理解し、受け入れなければならない。現実には、悪魔や人から来るものであっても、それは神から来るのである」と言っています。
苦しみとか試練というものはわたくしどもにとっては、神様から来るようにはとっても思えないのです。なにか悪いものが自分の上にのしかかって来るようなものである。あるいは人が自分にそう責めているかのようである。他の人間のせいである。そういうふうにわたくしどもは試みや苦しみについては思うものです。ルターはそのことをよく知っている。現実にはそうだ。だから「苦しみや試練は悪魔や人から来るものであっても」と言って、「けれどもそれは神から来るのである」とこのように言い直しています。そしてその次に彼はこう言うのです。「彼(人)は何よりもまっさきに神に走るのである」と。苦しい時はまっさきに神に走る。「そして、それを神から受ける。」それというのは苦しみのことです。「苦しみを神から受けるのである。そのことによって、人は決して短気とならず、神に絶望することがない」とルターは言います。「苦しみを、もし、悪魔や人から受けたということだけで済ませるならば、人はきっといらいらし、気短になり、自分に早々と諦めるかも知れない。そして、神様に絶望するかも知れない。けれども、まっさきに神に走っていって、苦しみを神様から受け取るならば、人は決して短気とならず、神に絶望しない。」こうルターは書いています。そして、「魂の奥底まで悲しみ、あたかも神から見捨てられたと思う、そこに神の顧みがある」と言うのです。神様っていうのは顧みてくださる、と言います。神様がフッと顔を向け変えてくださる。そういったものは、もはや神から見捨てられた、そう思う時にある。そしてそこに、人は慰めと希望に向かっての喜びを見い出す、と言います。徹底して魂の奥底まで悲しんで、神様から見捨てられたと思う時に、神様の振り返りがある、と言うのですね。
顧みがある!これは、ルターはきっと自分の体験、信仰体験から、そう言っているように思うのです。そういう意味で、わたくしどもは、わたくしどもの受けております試練や試みというのは、ただ悪魔の仕業ではない。それは神様ご自身から受け取るべき苦しみ、神様から受けるべき試みであります。むしろわたくしどもが神様のところに走っていって、受け取るべき試みであります。ただ単にわたくしどもがじーっとしていて、神様から試みがやってきたと言って、小さくなっているわけではない。試みは、苦しみはむしろまっさきに走っていって、そこで神様から受け取る苦しみであります。そこに初めて、神様から見捨てられたと思うその時に、わたくしどもは神様からの「振り返り」を受けて、慰めや喜びを見い出す。これがルターの言い方であります。これはおそらくルターの信仰体験からしか言えないようなことかも知れない。そういう形で、イエス様ご自身も荒野の試みをお受けになられたのです。
心の中の荒野
「荒野」というのは、わたくしどもはきっとそれぞれに荒野を持っていると思います。心の中に荒野はある。わたくしどももきっと御霊によって荒野に追いやられるということがあるのかも知れない。あるいは、引き回されて荒野に行くのかも知れないし、荒野に導かれるということがあるのかも知れません。わたくしどもはそれぞれに荒野があります。きっとある者はそこでため息をついているかも知れませんし、ある者はそこで「こんなことをしていて何になる?」と思っているかも知れません。ある者は「どうしてわたしのような者に?」と思っているかも知れません。あるいは「こうなったのはあの人のせいだ」と思っているかも知れません。人は荒野でさまざまなつぶやきをするものであります。わたくしどもは一人ひとり自分の心の荒野の中で、そしていろいろなことを考えているに違いない。それで、悪魔はイエス様を荒野で誘惑をいたします。いろいろなこと言います。しかし、悪魔の言い方はひとつ共通したものがあります。「まだまだ」と言っているのです。「まだまだ」。「まだまだあなたできますよ、何かが」と言っている。悪魔は力を試すのですね。イエスの力を試している。「石をパンに変えてごらんなさい」「宮の頂上から飛び下りてごらんなさい」「わたしを礼拝してごらんなさい、全世界が手に入るから」。ほかの福音書をお読みになるとみんなそう書いてあります。イエスにある力を試しているのであります。これは慰めであります。「まだまだ大丈夫」「まだまだあなた余裕がありますよ」そういう言い分です。
しかしルターはそう言わないのですね。ルターは「試み」に関してこういうことを言っています。「自分の中にまだ力を貯えている者には、神の力と慰めはない。わたしには力が全くないので、あなたの力をください。そういうふうに言って、あらゆる慰めから身を引いて、魂を深く悲しませている者に、神は慰めをくださる。」ルターはそのように言います。まだ自分の中に力を貯えていて、「まだまだ何かできる」と言う時には、神の力と慰めはないのです。わたしには力が全くない、なんにもないからあなたの力をください。そう言って色んな慰めから身を引いて、魂を深く悲しませている。そういうところに、神の懲らしめと怒りがあるように見えるけれども、その中に神の善なる神と、神の憐れみとが隠されていることを知るのだ、とルターが言っているのです。
イエス様はまさしくそういうところに、身を置かれたに違いない。試みというものを、神様の導きによって自分はここに置かれているということを、イエス様はよくご存じであったと思います。そして、御自分の苦しみを悪魔からではなくて神様から受け取って、そして、悪魔に答えをお出しになっています。悪魔から苦しみを受け取って悪魔に答えをお出しになったわけではない、神様から自分の試みや苦しみをお受け取りになって悪魔に答えを出していらっしゃる。そのことが、「人はパンだけで生きるのではなくて、神の口から出るひとつひとつの言葉で生きるのだ」という言葉になったのでしょうし、あるいは、「主なるあなたの神を試みてはならない」、あるいは、「主なるあなたの神を拝し、ただ神のみに仕えよ」というようなお答えになったのに違いないのであります。
これは、ただ単にイエス様と悪魔だけの対話ではない。むしろわたくしども自身が、心の荒野の中でつぶやいております時に、やはり答えるべき答えであります。神様から深い慰めを受けて、神様の顧みを受けている中で、絶望の極みに立った時に、言いうるただひとつの言葉であろうかと思います。どの言葉をとったとしても、そのひとつひとつが試みや苦しみの最中にあって、深い慰めと希望の言葉となっていることを、わたくしどもはきっと知るに違いない。深く苦しんでいらっしゃる方であればあるほど、この言葉は深い慰めとなる言葉であります。今一度これを、わたくしどもは心の荒野の中に立って、つぶやきの中で、神から見捨てられた場所で、もう一度この言葉をわたくしどもは悪魔に向かって告白をしてみたい。きっとその時にこの言葉が、慰めと希望の言葉に変わっていることを、わたくしどもは知るに違いないと思うのでございます。
祈り
お祈りいたします。仰ぎまつる父なる御神様、試みと、そして、さまざまのそれに伴う苦しみとは、わたくしどもが、神様のもとに走っていって、神様からいただくものでございます。そこでは、あたかも魂を深く悲しませ、神様から見捨てられたかのごとき思いがあったとしてもなおそこに、神の顧みがあり、あなたにある深い慰めと希望とが与えられることを知らされています。どうか、その中にあって、わたくしどもが悪魔に答えを返していくことができますように。苦痛にわたくしどもの答えを返していくことができますように。どうかあなたの豊かな御顧みを今この時わたくしどもにお与えください。キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン。
おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(1988年2月21日 四旬節第1主日礼拝説教
テープ起こし by 後藤直紀神学生、文責 by 大柴譲治)