説教 「古い革袋を破る新しいぶどう酒の力」 大柴 譲治牧師

マルコ 2:18-22

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

断食問答

本日の福音書の日課は断食問答です。そこでは目に見えるかたちの禁欲と敬虔が問題になっています。「なぜ洗礼者ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々は断食をしているのに、あなたの弟子たちは断食しないのですか」。これは人々にとって重要な問いかけでした。目に見えるかた(律法)というものにこだわる部分が私たちの中には確かにあります。

断食というものは本来はざんげや悲しみを表すしるしとして行われていました(例えば、レビ記16:29の「苦行」は断食を指す)。律法に規定された断食もある一方で、民族的な不幸を忘れないようにする記念日にも断食をしたようです(ゼカリア7:3以下、8:19)。疫病の流行や戦争、干ばつに際しても公の断食が行われました。個人的にも喪中のしるし、悔い改めの表現、祈祷の準備、誓約の成就などのために断食が行われていたようです。さらに、宗教的に規定された断食日として週に二度、月曜日と木曜日が定められていました。敬虔な教師について訓練と指導を受ける者たちは、皆その教師から一定の時に、週に二日、夜が始まるまでの間、食物を控えることで、神と人の前にへりくだることを奨励されていたようです。そのように身を正して断食をするということはユダヤ人にとっては当然のことでもあったのです。

ところがイエスの弟子たちは違っていた。洗礼者ヨハネの弟子も神の国の到来の備えとして悔い改めの断食を行っていたのですが、イエスの弟子たちは断食をしませんでした。どうして断食しないのか。なぜ律法を大切にしないのか。イエスの弟子たちは自由で開放的であり、禁欲的な雰囲気を全く感じさせなかったのでありましょう。それはユダヤ教社会の中にあっては際立っていたと思われます。

マタイ福音書11:19にはイエスさまが「見ろ、大食漢で大酒飲みだ、徴税人や罪人の仲間だ」と人々に揶揄された様子が記されています。洗礼者ヨハネから洗礼を受けてヨハネの弟子であったイエスがヨハネと袂を分かったのも、そこには禁欲に対する立場の違いがあったという説明をある新約学者から聞いたことがあります。イエスさまとその弟子たちとは断食や禁欲的な行いを重んじず、律法を無視しているので敬虔な信仰者とは言えないという批判がこのことの背景にはありました。

イエスの答え~祝宴の招き

しかしそれは「時」の理解が異るゆえだということがイエスさまの明快な答えから分かります。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない」。洗礼者ヨハネは終わりの時に備えて断食したが、イエスとその弟子は婚宴の喜びのただ中にあったから断食する必要はない。それは神の救いが既に到来しているのだという「時」理解です。キリスト以前とキリスト以降では決定的に事柄は異っています。新しい時代が到来したのです。

ここで主はご自身を「花婿」と呼んでおられます。花婿と共にある婚宴の席では誰も断食などしない。それは場違いなことだからです。イエスと共にあるということ、それは喜びの宴に共に与るということですから、この言葉は私たちに対する祝宴への招きの言葉でもあります。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(2コリント6:2)なのです!

古い革袋を破く新しいぶどう酒の力

主は言われます。「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

「新しいぶどう酒は新しい革袋に」と語られる主の言葉はその通りですが、そのことは私たちにとって何を意味するのでしょうか。ここのところが本日のみ言葉の中心であり、核心であると思います。

これは主の教えの革新的な新しさを伝える比喩でありましょう。まだ一度も洗ったことのない新しい織りたての布切れでもし何度も洗った古い布切れの服に継を当てたとすれば、洗った途端にひどく縮まってしまい服を破ってしまうことになります。また、まだ醗酵中の強い新しいぶどう酒を古い革袋に入れてしまうと、その醗酵する力でその袋を破いてしまうことになります。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れる必要があるのです。

主の教えが持つ新鮮さは聴く者たちの心を強く動かしたに違いありません。そこには、これまで当たり前だと思っていた土台自体をもう一度根本的に問い直すような力強い響きがあり、人々の「常識」をグラグラ揺さぶったと思われます。それはちょうど、新しい布切れで古い服に継ぎ当てするようなものであり、古い革袋に新しいぶどう酒を入れるようなものだったに違いありません。主の教えはこれまでのものとは質的に完全に異る、新しい次元に属していました。それは古い革袋を破るほどの生命力を持っているのです。

このことを私たち自身に当てはめてよく考えてみる必要がありましょう。私たち自身はどうなのかということです。新しいぶどう酒である主のみ言葉を私という革袋の中に入れると、その醗酵する力によって革袋は破けてしまうのではないか。そう思わされるのです。私自身が主の新しいぶどう酒を入れるフレッシュな革袋となるためには、一度徹底的に裂かれる必要があるのではないか。古い革袋のままで安住することはできないのではないか。主ご自身が十字架の上で肉を裂かれ血を流されたように、私自身にも「裂かれる」ということが起こらなければならないのではないか。それが私にとっての十字架を背負うということなのではないか。この一週間はそのような思いでこのみ言葉と格闘してまいりました。礼拝を通して、また聖餐式を通して、古い革袋を破く新しいぶどう酒の力を私たちはいただいているのだと思います。

さらに言うならば、私たちはどこかで古い革袋で生きることに行き詰まり、破れた革袋を引きずりながらこの礼拝に集っているのかもしれません。古い革袋を破く力をもったこの新しいぶどう酒は、もう一度私たちという革袋を新たに創り直す力をも持っています。破れた器をその力によって新しく再生させてくださる。主イエスの周囲に集まった人々はそのような再生の力、復活の力をいただいて新たにされていったのではなかったか。私たちもこの礼拝に集うことを通して新しい革袋へと変容(トランスフォーム)されてゆくのではないか。パウロは言っています。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(2コリント5:17)。私たちの人生においてもキリストと出会うことで「新しい時」は既に始まっているのです。

「パートタイム宗教」

先週、久しぶりに新宿の紀伊国屋書店に行きました。そこでユング心理学者・河合隼雄さんの『心の扉を開く』という本を見つけました(岩波書店、2006)。様々な書物を紹介している本ですが、その中にネイティブアメリカンとの出会いを紹介している部分があって心に響きました。彼らには『宗教』(religion)という言葉はないということでした。毎日の生活そのものがすべてスピリチュアルだから、取り立てて『宗教』という言葉は必要ないのだそうです。そして一人のネイティブアメリカンがこう言ったというのです。「白人たちはパートタイム宗教をしている」と。この言葉に私はハッとさせられました。私自身が「サンデークリスチャン」「サンデー牧師」と言われたように思ったからです。

私たちはともすれば聖と俗を分けたり、スピリチュアルなものとそうでないものを分けたりすることに熱心です。断食するかしないか、安息日を守るか守らないか、礼拝に出席するかしないか、等々。私たちのそのような姿は「パートタイム宗教」でしかないのではないか。普段の、当たり前の日常生活そのものが大きなもの(神)とつながることによってスピリチュアルなものであるということを私たちはどこかで忘れてしまっているのではないか。否、どこかで私たちは自分に都合の良いように割り引いて考えているのではないか。そう思わされてハッとしたのです。

パートタイムではなく、フルタイムでキリストを信じるということがどのようなことであるのかを考えてゆく必要がありましょう。それは四六時中そのことを考え続けなければいけないということではなくて、要所要所でそのことを思い起こすようにということなのではないか。いや、このように考えることも自分の側に都合の良いように引き寄せていることなのかもしれません。

「今日は死ぬのにはもってこいの日」

6/1-3に参加したリチャード・グローヴス師のセミナー『尊厳ある生き方、死への道のり』でもネイティブアメリカンの言葉を聞きました。「今日は死ぬのにはもってこいの日だ(Today is a good day to die)」という言い方があるそうです。このような思いで、自分を超えた大きな大自然の命とつながっていることを意識しながら毎日を過ごすこと、一瞬一瞬を過ごすこと、そのことが大切なのです。

そしてそのためにこそキリストが私たちの所に来てくださった。どうあがいてもパートタイムクリスチャンでしかない私たちを救い主として支え、守り、導くために、主はこの地上に降り立ち、あの十字架にかかり、三日目に死人の中からよみがえってくださった。主はパートタイムの救い主ではない。フルタイムの羊飼いです。このお方は古い革袋を新しいぶどう酒で満たすことによって新しい革袋へと再創造してくださるお方です。このお方のゆえに、私たちは自らのパートタイム性を誇りたいと思います。なぜなら私たちは、弱い時にこそ主のみ力によって強いからです。

それゆえ私たちはネイティブアメリカンに習って言いたいと思います。「今日はキリストにおいて死ぬのにはもってこいの日だ。そしてキリストにおいてよみがえるのにもってこいの日だ」と。共に主にあるこの命を喜び祝いましょう!

私たちを主と共に生きること、あることの喜びへと招いてくださるお方が、お一人おひとりと共にいてくださいますように。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2006年6月18日 聖霊降臨後第二主日礼拝 説教)