マルコ 6:30-44
はじめに
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。ご挨拶
むさしの教会の皆さん、ただいま帰りました。久しぶりの母教会ですから、育ちの家、故郷に帰ってきたような、不思議な安堵感があります。と同時に、今朝、説教奉仕をおゆるしくださった恵みを、畏れつつも心より感謝しております。神学校最終学年にあたり、ゆるされたならば来年度は牧師として遣わされていく者としては、いささか緊張し、襟元が正される思いがいたします。今朝もご一緒に神様を讃美し、み言葉に聴くことを通して、この礼拝が祝福され、大きな喜びと励ましが上より与えられますようお祈りします。キャンプ準備会での出来事
私は先日、8月の7日から11日まで、ルーテル学院大学のキャンパスキリスト教センターが主催するサマーキャンプに、学生・教員たちと、チャプレン助手として行ってまいりました。場所は、山梨県と長野県のちょうど県境にある小淵沢です。学院大学で英語を教えておられるジャン・プレケンズ先生の別荘をお借りして行われました。事前の準備会で、キャンプのテーマを決めることになったのです。キャンプを通して、一人ひとりが聖書にふれ、イエス様のみ言葉に生かされ、豊かにされて帰ってくるということが目的でした。話し合いを進めるうちに、誰かがふと、言いました。「水飲みたい・・・」と。確かに、プレケンズ先生の別荘は、井戸水を汲んでいますから、天然の自然水で水の美味しさは格別です。そして、「水」はいうまでもなく、聖書と切っても切れない大切なものです。「それ、いいね」と誰かが言えば、水にまつわるキー・ワードが、次から次へと出てきたのです。「水辺で泳ぎたい」、「美味しい水を使った料理が食べたい」、「心がきれいになりたい」、「癒されたい」、そして「満たされたい」。
「満たされたい」。このひと言に皆、心をうたれました。それは、このキャンプが、ただ美味しいものを食べ、のんびりし、キャンプファイアーをしてお互いの親睦を深めて帰ってくる、ということだけではなくて、私たちが心の芯から癒され、満たされて帰ってくるような、そんなキャンプにしたいという、ひとりひとりの思いが重なったのだと思います。そんなわけで、全体のテーマは「水、飲みたい」となり、主題聖書箇所は、ヨハネ福音書の4章、サマリアの女性とイエス様の永遠の命の水の箇所になったのでした。
ここで申し上げたいことは、キャンプが終わった今だからこそ確信をもって言えるのですが、その場にいた一人ひとりが、「渇いていた」という事実です。それは、単に喉の渇きということだけではなかったでしょう。毎日大学に来て学びを続けている、ある人は働きながら、ある者は家庭・家族を持ちながら、それぞれが置かれた状況下で、精一杯歩んでいる。多くの友人・仲間もできた。けれど、何か心にぽっかりと穴が空いているような、満たされない思いがどこかにある、悩みがある、痛みもある…。私も含めて、皆はどこかにそんな思いを抱いてキャンプに参加したのではなかったか。そう思うのです。「渇いている」「満たされたい」。そのような自分の正直な、ありのままの姿に気づけるのも、また大きな恵みではないかと思ったのです。
キリストの憐れみ
本日の日課は、イエス様が五つのパンと2匹の魚で五千人以上の群集を満たされたという、よく知られた「五千人給食」の物語です。この物語は、四つの福音書すべてに記されていますが、それだけマルコにとって印象深く恵みに満ちた、また忘れ難い出来事だったのだと私は思います。後のマタイやルカ、そしてヨハネにとっても同じであったでのでありましょう。さて、イエスは、初めての宣教派遣活動から帰ってきた弟子たちから報告を聞き、ご自身も共に休まれようと、舟で「人里離れたところ」へ向かわれました。するとその後を、数人が走り数十人が走り、数百人数千人が追いかけます。彼らは社会の中で抑圧され、傷ついていた者たちでした。癒されたい、安らぎたい、元気を得たい、未来が見えない、希望が見えない、そんな思いを抱えて、イエスの後を追って行く群衆に、主イエスは深く共感されました。群衆の心の底にある渇きを見て取られたのです。聖書は、そのときのイエスのまなざしをこう表現しています。
「イエスは、舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教えはじめられた。」(マルコ6:34)
「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」という言葉が心にしみます。「深く憐れみ」。この短い言葉の中に、イエス様のお心のすべてが凝縮されていると言っても決して言い過ぎではありません。これはもともと「内臓が捻れる」という意味です。それは、「同情する」ということを越えて、「はらわたが引きちぎれんばかりに心が激しく揺さぶられた」ということを意味します。ここあるのは、主が、「はらわたが引きちぎられんばかりに」群集によって突き動かされた愛であり、まなざしであったのです。
そして、私たちの魂の奥にもまたどんなにか、この、イエス様の憐れみのまなざしを求める叫びが、痛みがあろうことかと思います。今、わたしがそれを説明しなくとも、皆さんおひとりおひとりが痛みを抱えておられると思うのです。それは病や不安であったり、将来のことであったり、実に様々な闇を持っていらっしゃると思うのです。それだけではなく、誰かを傷つけてしまった、または親しい人に傷つけられて、心に癒されない苦しみを抱えている方もおられるでしょう。わたしも、この七年間、「牧師になりたい」という一心で走り続けてきましたが、とりわけ昨年は、自分の中にある罪・自我と向き合わざるを得ない一年でした。卒論の執筆と挫折、このままでは牧師にはなれないという気づきからの休学と自主研修、そして結婚、復学と、実にさまざまな出来事があったのです。ゆるされて、神学校に戻ってくることができました。「自分は変わった!」と喜び勇んで進み始めましたが、わたしのこころは何ひとつ変わっておらず、依然として人を憎み、人を傷つけ、自分のことしか考えていない姿に、日々、いやというほどほど気づかされています。
何とかしてこの痛み苦しみから抜け出したい、渇きが癒され、満たされたい。生きてゆく糧が欲しい。私たちはどこかでそんな思いを抱えながら、礼拝に集っているのではないでしょうか。
本日の主題詩篇である詩篇23篇は力強く歌います。
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、
魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」
(詩篇23:1-4)
今朝、まさにイエス様は、あのステンドグラスにおられるような「羊飼いなるキリスト」として五千人の群衆を憐れまれ、私たちにも語りかけてくださっているのであります。
五千人への給食
さて、夕暮れになります。五千人の群衆、女性も子どもも加えれば、一万人以上になったのでしょうか。大群衆を前にして、弟子たちは夕食のことで途方に暮れ、解散させようとしましたが、イエス様は人々を空腹のまま帰らせることをお許しになりませんでした。しかも、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と仰っています。「わたしたちが二百デナリオンものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか」との弟子たちの応答は、「与える者は、私たちしかおりません」と心細く聴こえます。ここにあるのは五つのパンと2匹の魚、それがすべてです。イエス様は、それぞれに重荷を負って、行き先も分からぬまま苦しんでいる群集を組に分け、青草の上に座らせられたのです。イエス様の声が、一万人以上の人たちに聞こえたとは思えません。けれど、群集たちは、「深く憐れまれた」イエス様の心の波動を聞いたのではなかったか、私にはそう思えるのです。声は聞こえなくとも、そのお姿が、しぐさの一つ一つが、群集の渇いた心に染み入っていく。五十人、百人と小さく分かれて腰を下ろしていくことで、混乱した気持ちは少しずつ落ち着き、思いがスーッと整えられていく…そんな光景が目に浮かびます。次に何が起こるのか、群集は固唾を呑んでじっとイエス様を見つめたのではなかったでしょうか。
「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで讃美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた男は、男が五千人ほどであった。」(マルコ6:41-44)
限りある五つのパンが、イエスの祝福の中で、無限に分けられて行きます。決して足りないということがありません。2匹の魚も同じです。「満腹した」という言葉は、ただ衣袋の満足だけを意味しているのではないでしょう。心にも十分な充足感が与えられたに違いありません。パンと魚という、貧しい庶民の食卓です。しかし、こんなに満ち足りた食事を今までにしたことがあっただろうか。かつてダビデはこう歌いました。
「わたしを苦しめる者を前にしても、
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。
命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。」(詩篇23:5-6)
そのことが、今、ここで起こっています。
ご存知のとおり、この五千人給食の出来事が、後に、教会での聖餐式に重ね合わされていきました。けれども、ここに象徴さているのは、聖餐式だけではありません。象徴されているパンと魚はキリスト、神の御言葉です。今ここで、私たちは、聖書を通して御言葉のパンをいただいています。聖書という、たった一冊の書物。これがパンであり、魚なのです。いや、もっと正確に言うなら、この一冊の書物を通して伝えられているイエス・キリスト、これがパンです。これが魚です。そして今私たちは、このパンと魚を、分け合って食べています。私たちもあの群衆の一人です。
まことの羊飼いなるキリスト
普段の生活に入っていけば、私たちはまた、それぞれの生活の重荷を負い、それぞれの役目を引き受け、葛藤したり戦ったり、そうしながらも、群衆の中の一人として生きて行きます。心配事や心細いことや、目を背けたくなるようなことに直面しても、一つ一つを乗り越えつつ、生きて行くことが求められます。私たちは何を支えにして生きていくのでしょうか。私たちはそれを知っています。どこまでも「深く憐れむ」お方、「はらわたが引き裂かれんばかりに」わたしたちを愛される羊飼い・キリストが支えであることを!いや、もっとはっきり言えば、私たちがキリストによって知られているのです。そのようなイエス様のお心を、福音書記者ヨハネは、次のように記しています。「わたしは、よい羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10:13-15)
わたしは、自分の羊を知っていると主は言われます。自分の羊、主は私たち一人ひとりをそう思ってくださいます。誰のものでもない“ご自分のもの”だと思ってくださいます。そのわたしが、この自分の羊を知っているといってくださるのです。
キリストは、私たちのことを、自分のものだと思ってくださっています。クリスチャンというのは、キリストのものという意味です。わたしたちは放り出されているのではない。キリストに所有されているのです。ご自分が所有するものをキリストは決して捨てられません。それどころか、キリストは命を捨てて、それを守って下さったお方です。
私たちがキリストに救われているのは、キリストが、私のことを知っていてくださっていると信じることがゆるされているからです。救いという言葉を、別に言い換えたら何でしょうか。魂の救いというのを別に言い換えたら何でしょうか。「知ってもらって、受け入れていただいている」ということではないでしょうか。
知られてしまうというのはどんなことでしょうか。何もかも裸にされてしまう。何もかも裸にされて、人々の目にさらされるとしたら、どんな気持ちでしょうか。自分の何もかもが一切知られてしまったら、まるで自分の居場所が消えていってしまうような、恐れを抱かないでしょうか。一方で、軽々しく「分かる、分かる」などといわれても、かえって心を閉ざします。
けれども、キリストの前で裸にされることは、意味が全く違うのです。キリストの前で裸にされるからこそ、わたしたちは救われます。一切の自己弁護をたたれ、誇れるものは何もないほど、ほんとうに知り尽くされるからこそ、私たちは救われるのです。
キリストが、私はあなたを知っているといわれるとき、それは、私たちの心の内にある弱さや痛み、哀しみや喜びまでも、すべてをご存知でおられるということです。しかし、ご存知でおられるからこそ、私はあなたを捨てておかないと言われるのです。キリストは、この私を贖い、救い取って、決して捨てず、恥とされないのです。十字架で血を流してまで、ご自身の命を捨ててまで取り戻そうとされたもの、決して失われてはならないもの、それは、あなたのだと。このお方は、私たち一人ひとりに寄り添って、その見事な姿だけではなく、どんな姿においても、そのみじめさ、みにくさにも共に向き合い、目を離さずにいてくださるのです。
「あなたはわたしのものだ」。
こう力強く呼びかけてくださるお方、羊飼いなるキリストの愛に満たされ、今週もご一緒に歩んでまいりましょう。この声に聴き、この言葉をいただき続けてゆくならば、必ず立ち上がってゆけます!どうか、ここに集われたお一人おひとりの内に、キリストの声が豊かに響き、皆さんを望みに溢れさせてくださいますように。
おわりの祝福
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。(2006年8月20日 聖霊降臨後第11主日礼拝 説教)